2015年10月14日水曜日

マイナンバーなんか糞食らえ

琉球新報を見ながら
2015年10月14日

マツダの両面広告がある。
VWのクリーンディーゼルエンジン不正ソフト問題がマツダの主流になったマツダクリーンディーゼルへの影響の推移を見守ってからの広告だろう。
ディーゼルエンジン全体の沈下に巻き込まれるのかマツダの独自性が再評価されるのかへの両面広告だろう。
ウクライナでのマレーシア機ミサイル撃墜事件報道、日本のマスコミ報道の印象操作を日頃から感じる反動からか、どうしても日本のマスコミとは正反対の目線に立ってしまう。
このような偏った目線で報道を見てしまうことは、日本のジャーナリズムには不幸な現象だろう。
マスコミも利権の構造に組み込まれてしまっている。
政治もマスコミも極端に利権の力学で揺れている社会では国民利益と国益が一致することはない。

マイナンバー関連事件が2件立て続けに起こる。
厚労省職員の汚職、マイナンバーに関わる職員と企業との癒着だ。
この汚職事件報道から厚労省界隈の村空気が伝わってくる。氷山の一角だろう。
業務の一環として、職員行為としての線引きは、かなり、難しい立ち位置外部との関係だろう。
ハッキリと言えることは、この職員は嫌われ者と言える。収賄犯罪では、ワイロを貰った側とワイロを渡した側では時効期間が違う。その為、ほとんどがワイロを渡した側からの情報による事件発覚になる。
業者に売られたか。警察が業者と取引したか取引せざるを得なかったか。意図的に業者が職員を潰した依頼されたか。
稀に捏造さえある。
マイナンバー本体には影響が少ない案件であり、政治家や厚労省の幹部が警察の手柄として人身御供にしたかもしれない。

もうひとつのマイナンバー事件は、ひどい話だ。一番、国民が不安に感じることが具体的に起こった。
取手市の担当者のマスコミ取材対応が、また、ひどい。突っ込みどころだらけ。
国民不安のストライクな受け答え、これではマイナンバーは廃止反対を煽るようなもの。
上席担当者は、終始、大丈夫だろうと、だろうを強調した。そして、明確にわからないの連発。ウソでも安心安全を訴えることなく不安を煽る。
フォローに入った控えにいた職員が言うには、目的以外の使用は法律で禁止されていると堂々と発言する。
要するに悪用されることについては想定していない。役所の管轄外、警察、民事の個人的な問題と言っているようなもの。

現行進めているマイナンバーの取り組み、法律と先を見据えた官僚や政治家発言との乖離が大きくシステム設計や運用においても、そのような発言、既成事実として現行運用範囲を超えて作業が進められている。
運用のケースバイケースによってセキュリティ問題も大きく変わるが将来の運用範囲を見据えて、現行運用による作業を進めれば制度破綻は避けられず、詐欺成りすましによる経済活動がアベノミクスの隠れた第4の矢かもしれない。
若しくは運用追加の度にソフトの全面的再構築という金のなる木を育てている可能性もある。

2015年10月7日水曜日

 完

 額から外して写真だけを巻いて持ち歩けば苦労はしないのに、敏子には、その遺影の額が兄に思えて、どうしても、そうする気持ちになれませんでした。
 額を外したら兄が遠くに行ってしまうような惜別の情が強く敏子の心の中に
宿っていたのです。
また、家族全員がこのような地獄のような戦場の中をくぐりぬけることができたのは兄の写真が守り神になってくれたのだと信じる気持ちも重なっていたのです。

 収容所となっていた阿真村の入り口では二世の通訳も加わった米兵たちが山から降りてくる避難民のチェックをしてました。
 その姿があまりにも惨めな服装や汚れた体なので触れないのか、銃口の先だけを左右に動かして通行の許可を出していました。
 ところが、布団を担いで先に着いているはずの日本兵の姿がそこには見えません。
 見回すと、米兵たちが点検している近くに自分たちの布団は放置されていました。
 彼は日本兵だと見破られ、連行されていったようでした。
 
 阿真に収容された他の家族の中にも亡くなった身内の者もたくさんいるが、写真を持っている家族はいませんでした。
 たくさんの人たちがすし詰めで寝起きしている狭い部屋の中で自分たちだけの写真を置く勇気もなく母は額から外して自分の着物の襟の辺りに縫込みいつも持ち歩いていました。
 自宅に置いてあった戦前の写真はみんな消えてしまったのに、母のおかげで三男の写真だけが今も残っています。

 山から降りてくる村人たちが続々と増え、阿真村だけでは収容できなくなりました。
 それで、座間味の一部の人たちと敏子たち阿佐出身の人たちは阿佐村に移動することになりました。

 阿真峠から見下ろすと、座間味の村は家が5,6軒しか残っていません。
各家々の屋敷はブルトーザーで敷きならされ、村は山裾まで見渡される広場となっています。
 そこには、整然と米軍のテントが張られていました。
そして、あちこちに軍需物資が山積みされ、道もなく自由自在にジープやトラックが行き交ってます
沖には数多の艦船が連なった黒い浮き桟橋のように停泊してます。
あの唸る艦砲射撃を打ちまくった黒い悪魔の姿を目にした村人は身震いしました。
山の稜線に沿って電波探知器や対空砲が設置され、辺りの空の不気味に警戒してました。

 阿佐道の峠に差し掛かると、辺りに異様な匂いがただよい、みんな鼻をつまみました。
日本兵の死体が累々と林や藪に重なっているのです。
木のまたに寄りかったり、枝に挟まれ「く」の字になって無残な姿で死んでいるのもいます。
這い上がろうともがいたであろう、木の根を握ったまま息絶えた兵もいます。
中には水欲しさにはってきたのか、数名の兵が小さな溝に顔を突っ込んだままの無残な姿をみせてます。
そして、細い流れがその口あたりを洗っています。

 目を向ける所はどこも死体が転がっている墓場でした。そこは、日米両軍の最後の激戦地の跡だったのです。

 その阿佐道を行き交う米軍の車両が、移動していく住民に土ぼこりを吹きかけて行きます。
 そして、車上の兵隊たちが意味のわからない奇声を発していました。

       完

宮城恒彦著「投降する者は」より

2015年10月5日月曜日

国破れて山河は

10 国破れて山河は

 村人たちが収容されている阿真から身内を探しにガマにやってくる人が増えました。
 中には舞台衣装かと見間違うほどの派手な服装でくる女の人もいます。
貧民街に現れた女王様の姿に映ります。

 座間味出身のC子がその人でした。回りの人はぼろをつけ、やせこけているのに彼女は元気印そのものです。そのきんきらきんの衣装に唖然とした友人のS子が尋ねました。

「その格好はいったいどうしたのよ」

すると、彼女は

「あちこちの壕から探し出して好きなものを着けてきたの」

と平然と答えてます。

 C子の姿はたちまち軍や関係者たちの目に入り、彼女の行動は厳しく監視されるようになりました。
スパイと疑われたのです。
トイレに行くにも後をつけられる始末です。
もし、彼女が再び収容所に戻るようなことにでもなれば、命が狙われると心配した友達が説得して山に残るようになりました。
しかし、投降する人たちがふえるにつれて、日本軍の目も次第にC子や村人から離れていきました。

 阿真収容所における米軍の親切な対応の話に動かされて、敏子の家族も投降することに決めました。それで、ヌンルルーガマからユヒナのソーシに行き、そこで一泊することにしました。

 ソーシの海岸での晩のことです。沖の艦船から物凄い数の艦砲の音が夜の岩場に轟きました。
「ズドン・・・・ヒュルルー・・・・ボアン」
 岩石が落ちてきはしないか、と思うほどの轟音があたりを揺るがせて数十分は続いたでしょうか
忘れかけてたあの雷鳴のような艦砲の激しい音です。

その合間を縫うように「バンバンバン・・・」と機関砲の連発する音も入って聞こえてきます。

 そして、サーチライトの黄色い光線が海上をなめるように走り回ります。
時々、光りの先が海岸まで届き、あたりを昼のように明るくします。

 見つけられそうな恐怖におそわれ、敏子の家族は狭い岩穴の奥にすいつくように隠れました。
 しばらくしたら、攻撃の音は止みましたが、米兵がやってきはしないかという心配は消えず、それに、海風の寒さも手伝って、一晩中、眠ることができませんでした。

 夜が明けました。どうにか生き延びたと、ほっとしていたら、敏子たちが隠れていた場所の近くの岩陰から濡れた服を着た一人の日本兵が出てきました。
 敏子たちが昨夜の砲撃の恐ろしさを話すと「ああ、あれは私たちを狙ったもんだったんだよ」と、他人事のように平然としてます。
「どうしたんですか。そのせいで睡眠不足しましたよ」とぐちったけれど、わびることもなく、苦笑いしてました。

 攻撃された理由を聞いてみました。
 海岸に流れ着いた材木などで筏を組み、数名で久米島へ逃亡しようと企て、漕ぎ出してすこし沖合いに出たところ、監視艇に見つかり、射撃されたというのです。

 彼は海に飛び込んでやっと岸に泳ぎ着いたが、仲間の行方はわからないと言いながら、昨夜、砲撃された辺りの海面に目を移していました。

 敏子の母は航空隊の志願兵として鹿児島へ渡航中に亡くなった三男のことを思い出したのか、その兵に一緒に捕虜になろうと誘い、島人に成り済ました服装をさせて家族の一員に加えました。

 敏子たちにとっては有りっ丈の財産である荷物を分け持って阿真へ向かって移動しました。
 長い間のガマの生活ですっかり湿り、重くなった布団は兵隊に担がせました。

 戦場で衰弱していたであろうが、さすが若者です。獣道のようなユヒナの坂道をどんどん上がっていきます。
いつの間にか、敏子たちは彼の姿を見失っていました。
敏子の荷物は鍋や釜です。かさばって歩行の邪魔になります。でも、これがないと、飯が食べられなくて家族の者が困ります。
「カラン、コロン」と岩に荷物をぶつけながら喘ぎ喘ぎ歩を進めました。
おまけに背負った四歳の弟がぐずつきます。
 足の怪我が完治していない母は一人で歩くのもせいいっぱいです。
休み休みついてきます。手をかそうにもみんな自分の荷物を運ぶのに精一杯でした。

 亡くなった兄の写真も額に入れたまま敏子は肌身離さずもっていました。
そして、家族とともに避難移動していたのです。

宮城恒彦著「投降する者は」より

2015年10月3日土曜日

官房長官は今後もこの問題に触れるのかな

琉球新報を見ながら
2015年10月3日

邦人スパイ容疑、公安庁情報収集依頼かの記事。
こんなものだろう。

誰が公安関係者なのか身近でも気づかないで付き合っていることもあるかもしれない。旅行中の頼まれごとは全て排除する勇気も必要な世の中である。
ロシア、シリア空爆継続に対する西側国の反応など、どこに転んでも最低な現状だ。

2015年10月2日金曜日

劇場 菅官房長官会見ウォッチが面白いかも

琉球新報を見ながら
2015年10月2日

ふたつの国際報道が気になる。
中国での邦人スパイ容疑で逮捕とロシアのシリアでの空爆だ。
共通点は、いずれも発表報道をそのまま伝えていること、詳細も分からないままの記事内容と見出しの決めつけによるイメージ操作感がプンプン。

中国の邦人スパイ容疑逮捕の第一報は日本、中国のどちらからなのだろう。
確認する間もなく報道が氾濫しワイドショーが煽りまくる。
1番印象的なのは、菅官房長官会見での感情的な発言だろう。
かなりの違和感満載の決めつけた内容は事の真偽を確認できない前提でしか考えられないほど一方的だ。
中国が正しいと言うつもりはない。反スパイ法という強権的な法律による逮捕は意図的とも取れる。
しかし、その問題と他国の法律に抵触した疑いでの逮捕に対して詳細も言えない日本政府しかも内閣官房長官が容疑事実を完全否定する姿はとても理性的とは言えない。

今回の邦人スパイ容疑での逮捕の事実は5月に日本政府は把握している。
中国政府からの通知が5月に日本政府へされている。この事実は隠せない。
ニュースでは5月から9月までの日中の政治スケジュールへの影響を考慮して両国とも自重したのでないかと解説する。
この解説が間違ってたとしても、中国の反スパイ法による逮捕となれば、事は大変だ。下手すれば命にも関わる問題を4ヶ月も放置し、明確な説明も出来ずに逮捕容疑事実はないと内閣官房長官が明言できるのは詳細を知ってないとできないはずだ。
若しくは日本政府が直接関与してたかのいずれかになる。
しかし、日中政府が4ヶ月も先送りできるほどの案件なら、菅官房長官が発言するように逮捕容疑そのものが重大な案件ではない可能性が前提の日中両国政府がすでに納得している案件として政治利用していると考えた方が合点が行く。
中国にとっては、アメリカをはじめ中国で活動している外国人への抑制効果で中国国内の様々な事件の収束への阻害要因として圧力を掛けておく必要がある。
日本の菅官房長官の過度な感情的な対応は
中国を利用した国内情勢へのアピールと中国の反スパイ法という間接的な反作用を使った日本国内へのスパイ、国防感情のプロパガンダで国内公安強化への布石とも捉えたくなるほど演出じみた会見に見えた。

悪法であれ、反民主的であれ法律の乱用であれ、国家主権に基づく容疑による逮捕に対しての反論ならば、逮捕容疑を否定できる内容の説明がなければならない。
4ヶ月もありながら、中国から一切の説明がないのか、あったのか。
日本政府の外交、交渉能力の問題、責任の方が大きいと考えるのが一般的ではないか。
今年初めのISISによる邦人人質殺害にも似た対応力のなさなのか。
政治的意図による命の軽さなのか。安倍政権の国民一人一人の命に対する考え方、軽さが見え隠れしている。

報道も邦人スパイ容疑逮捕より、それを利用した中国批判的な反スパイ法など中国の反人権的体制批判に趣を置く事の意味へ加担し嫌中国感情を煽る事に一生懸命で視聴率稼ぎに夢中で何を伝えたいか、かなり、怪しい政府とのタッグだ。

ロシアのシリア領内でのISIS拠点空爆への報道もかなり偏った報道だろう。
全てがアメリカに偏った発表報道を基に報じられている。
これも中々真実の確認が取りにくい報道だろう。
以前のアメリカ軍による空爆による民間人への誤爆とも性質が違う問題を含んでいる。国連の会議からの延長で今回のロシアによる空爆を見れば、アメリカ側が正しければ、何故、対抗しないのかという疑問がでてくる。
手を出せない事情があり、現実にはアメリカはロシアに委ねた感じだろう。
その成果へコメットしなければならない立場に甘んじなければならない事情とはなんだろう。
できる事はロシア介入成果への評価を下げることでロシアの好き勝手させない努力しかない。
ロシアからすれば、アサド政権の維持がシリア安定としているのでISISも反アサド勢力も区別はなく、アメリカの息のかかった反アサド勢力を同時に叩く、本音は先に叩いた方がISISに専念できる。
簡単な方から作戦を実施していきたいの本音だろう。
それでも、批判しかできないアメリカの弱みとは何だろう。それがシリア問題、ISIS問題の本質ではないだろうか。

それにしても、最近の菅官房長官の会見、感情的な発言がばかりなのが気なるな。
インドネシアの時も異常な反応と言える賄賂でも渡していて裏切られたみたいな怒りようにも見える。♬


2015年10月1日木曜日

投降する者は

投降する者は

 当時、那覇などの中学校などへ進学していた学生たちは十・十空襲の後避難のため故郷に帰省していました。
 しかし、日本軍の駐屯によって全員防衛隊に組み込まれ、軍と行動をともに
することになってしまいました。
 そして「捕虜になるのは軍人として恥である」という戦陣訓(生きて虜囚の辱めを受けず)を彼らも叩き込まれ、投降することを死よりも怖がっていました。
 しかし、中には心から信じていない者もいたのです。

 阿佐村出身の石川重義さんもその一人でした。
 彼は師範学校(戦前教員を養成する唯一の上級学校)を卒業し、沖縄本島で
教員をしていましたが、体調をくずして故郷で療養に努めてました。
 そのときに戦争にあったのです。彼も米軍に追われて山中を逃げ回っていました。

 彼は英語が得意でした。
戦後、米軍によって臨時中央琉球政府の初めての主席に任命された、英語が堪能だった
比嘉秀平さんの教え子であるのです。

 太平洋戦争も中期の昭和18年頃になると英語は「敵性語」というレッテルをはられ使用禁止になってしまいました。
 そして、英語を使うものは非国民とののしられた時代になりました
スポーツ・音楽界で使用する外来語は日本語で表現するようになったのです。

 たとえば、ラクビーは闘球、サッカーは蹴球、ゴルフは打球、そしてレスリングは重技と言い換えられました。野球にいたっては飽きれるばかりの語句です。
 審判では、ストライクは「よし一本」、ボールは「一つ」、三振は「それまで」、セーフは「よし」、アウトは「ひけ」、タイムは「停止」というのです。
 さらにルール用語も面白いのです。
ストライクは「正球」、ボールは「悪球」、アウトは「無為」など、と唱えたり放送しなければならなかったのです。
 それらの言葉を使った実況放送が聞きたかったものです。
 そして、試合中の選手交替も延長戦も「日本的精神に反する」との理由で禁止されました。

「死守」という言葉は、すでにその頃から芽生えていたのです。
 さらに、新聞・雑誌・音楽・放送などについても使用禁止の言葉が増えました。
 ニュースを「報道」と言い換えるのはわかるが、日本コロンビアを「日蓄工業」というのは中身が想像つきません。
 そして音階も「ドレミ」を「ハニホ・・」と唱えるなんて、どこが英語でしょうか。
「音楽顕奨」とは何かお分かりになりますか。

 ジャズや軽音楽も「卑属低調(品がなくて俗っぽい)退廃的(廃れて不健全)喧騒的」ということで徹底排除され、残った洋楽は枢軸国(戦争同盟国)だったドイツ・イタリアが中心になりました。

「坊主憎けりゃ、袈裟まで」の徹底した排外主義の珍現象だったのです。
その頃、アメリカでは日本語研究が盛んだというのに。

 石川重義さんは英語が分かりとは、おくびにも出さなかったのです。
 知られたらひどい目にあうことを恐れていたから。でも、投降を呼びかける
英語放送の内容は理解していたので、阿佐村の人たちには速く山を降りるように回って勧めていました。敏子の母親にも「小母さん、アメリカーたちは住民は殺さないから出てきなさいと呼びかけていますよ。早くそうしたら方がいいですよ」と教えてくれました。

 しかし、彼の言うことをすぐ信用するわけにはいきませんでした。
でも、すでに捕虜になっていた人たちがやってきてガマに隠れてた家族や
親戚に収容所の様子を伝えました。

 阿佐村のマチガー小の上原武造さんもその一人です。
 彼は自分の村の中で米兵に捕まり阿真の収容所に連れて行かれました。
 そこで米軍の待遇のよさに驚き、そのことをガマに隠れてる村人たちに告げにやってきたのです。
 彼の説得にすぐに応じる人は少なかったが、用事をすませて、阿真村に帰る途中、阿佐村の自宅で一晩泊まることにしました。
 ところが、寝てるところを日本兵に襲われ、スパイ容疑として処刑されました。畳や壁に血が噴き飛んでいたそうです。

 その事件があってから、石川さんは、これ以上住民の犠牲者を出させてはいけないと英語の使える彼はンチャーラ海岸に陣を張ってる米軍に避難している住民の事情を伝えるつもりだったのでしょう、隠れていたユヒナの片隅にあったヤギ小屋を出て、米兵たちの方へ両手を挙げて歩き出しました。
側には彼に同意した座間味出身の慶留間次夫(工業学校学生)も同様の格好をしてついていました。

 小屋から十数メートルの距離まで来ました。突然、銃声が響きます。
向かいの藪などに隠れてた米兵たちが一斉に銃を構えました。
と同時に石川と慶留間の二人は田圃の中に崩れるように倒れ、動かなくなってしまったのです。
即死でした。投降していく二人は後方から射殺されたのです。
 発砲した山羊小屋に二人と共にそれまで潜んでいた日本兵でした。
すると、たちまち、その銃声に呼応するように米兵たちの一斉射撃が山羊小屋に集中しました。

 戦時中、チシ海岸の砂浜で二人の日本兵が銃殺されました。
 砂川氏の日誌によると、彼らは住民の食料を奪取し、敵前逃亡を企てたという理由で処刑されたようです。
 二人は大学出の召集兵(軍の命令で入隊した兵)でした。
戦後、日本軍、米軍が座間味から引き上げた後もその死体は処理されず
日干しされた銅色をした身体は「大」の字を描いた影法師のようにチシの白い砂浜に放置されてました。

 磯辺に寄せる波の音は昔のまま、二人の上を無情に吹き渡っていました。

宮城恒彦著「投降する者は」より

一億総貧困社会での希望は宝クジ、笑えない社会

琉球新報を見ながら
2015年10月1日

後戻りはできないほど、世の中は変わってしまったのだろうか。
労働組合が世の中から疎外され世論の批判の対象にされ形がい化し、国の政策決定にほとんど影響を与えなくなり久しく時間が流れた。
同時に労働者という概念、立ち位置さえ忘れ去られた結果の先に具体的に見えてきたのが1億国民総貧困時代への叫びだろう。

国鉄がJRになり、電電公社がNTTになり、郵便局が郵政株式会社、そして農協が改革された。
集中的に日教組が叩かれ教員採用時の条件に非組合を進めて弱体化に成功した。
並行して、労働界の統一により連合という組織に再編され公務員組合を押さえ込み無毒化した。
いずれも、日本の労働組合の本山ばかりが民営化と効率、合理化の嵐に見舞われ社会全体の利害から遠ざけられ骨抜きにされ、自己保存のギリギリの環境に追いやられた

教職員組合である日教組の衰退により、学校教育現場の管理が進み、教育委員会がのさばり比例して、学校でのイジメが社会問題化している。
当然といえば当然で学校現場の概念が人間教育から経営管理へシフトすれば、児童学生がはじき出される。
先生は教育者から監視されるサラリーマンになり、子どもたちの心より、客観的な数字が教育の対象になる。

来年から18歳に選挙権が与えられ投票で政治家を選ぶことができるようになる。
その子どもたちへの政治教育をどのようにするのかが検討されている。
日教組が強い時代は、学校生活の中で政治教育に触れる機会は多かった。
本当の意味での政治教育だが、政府はこれを極端に嫌った結果、日教組潰しが政治課題となった。
この政府の行動に結果からして国民の多くは賛同したのだろう。

政治教育とは体制、政府の政策批判の視点を育てる事でしかない。
これを偏った思想とか政治色が強いとかの批判の対象になり、多くの人が問題にする。
しかし、その指摘は近視眼的な視点でしかない。政治への見方、政策への評価などを学ぶには批判的な視点が不可欠になる。
その影響を受けた子どもたちが全て反政府や反体制、社会主義者にはならない。
子どもたちには学校以外にも家族や地域でのコミニケーションがあり、バカではない。
人は年を重ねていくに連れ保守化していく、若い時は純粋に正義感が強く、社会の矛盾に敏感なのは当たり前、その時期に正しい批判精神で政治教育をさせない政府の考えが恐ろしい。
政治家と行政が楽をしたいだけでしかない。
その結果が国民の1%の人に富の30%、10%の人に90%の富が集中し、残りの90%の国民が10%のおこぼれに与る。
大企業の溜め込んだ内部留保が300兆円になり、お金がないからと消費税を上げる。
国民に人生を楽しむ余裕を与えずに、ひたすらお金と生活に追われるように政策を実施しても、誰も文句を言わせない、言う場所もない。
このような社会の継続するには学校教育と政治教育は要になる。

今日の記事に自治体、市町村役場における非正規職員が4割という記事だ。
以外と知られてない社会の影の部分だ。
非正規でもありつければ、ありがたいという程、歪んだ実態だ。
役場が労働者関連法案を1番上手く運用していて、労働環境の底下げを後押ししながら、低賃金社会の問題を政府は非正規をなくしていくとウソぶく。
しかし、日本には労働者を代表し闘う労働組合は全て民営化され、既得権益集団しかない。
1割集団へ這い上がる事しか考えてない。
ほとんどの国民が生活保護による老後を迎える社会しか先がない。そうなれば、年金制度も変わざるをえない。
強制移住による隔離老後管理しか賄えなくなる。古代社会への回帰、非民となる。
企業の不正が社会問題化し話題になる。企業経営の透明化が求められ社外役員の必要性が問われた。
経営の客観性の確保だが、労働組合が強い時代には、働く者の権利として職場を守るという視点が幾らか企業経営に反映されていた事もあった。
それが労働組合は疎外され、それに代わり株主が取って代わる。
労働者が経費として物扱いされるのと並行して、企業のあり方がハッキリと変わった。
政府でもまったく同じように国民所得よりも企業、株主利益を優先して行く、誰の為の、何の為の政策かを問う声も聞こえなくなり、1割民主主義はますます強固になっていく。