2015年10月1日木曜日

投降する者は

投降する者は

 当時、那覇などの中学校などへ進学していた学生たちは十・十空襲の後避難のため故郷に帰省していました。
 しかし、日本軍の駐屯によって全員防衛隊に組み込まれ、軍と行動をともに
することになってしまいました。
 そして「捕虜になるのは軍人として恥である」という戦陣訓(生きて虜囚の辱めを受けず)を彼らも叩き込まれ、投降することを死よりも怖がっていました。
 しかし、中には心から信じていない者もいたのです。

 阿佐村出身の石川重義さんもその一人でした。
 彼は師範学校(戦前教員を養成する唯一の上級学校)を卒業し、沖縄本島で
教員をしていましたが、体調をくずして故郷で療養に努めてました。
 そのときに戦争にあったのです。彼も米軍に追われて山中を逃げ回っていました。

 彼は英語が得意でした。
戦後、米軍によって臨時中央琉球政府の初めての主席に任命された、英語が堪能だった
比嘉秀平さんの教え子であるのです。

 太平洋戦争も中期の昭和18年頃になると英語は「敵性語」というレッテルをはられ使用禁止になってしまいました。
 そして、英語を使うものは非国民とののしられた時代になりました
スポーツ・音楽界で使用する外来語は日本語で表現するようになったのです。

 たとえば、ラクビーは闘球、サッカーは蹴球、ゴルフは打球、そしてレスリングは重技と言い換えられました。野球にいたっては飽きれるばかりの語句です。
 審判では、ストライクは「よし一本」、ボールは「一つ」、三振は「それまで」、セーフは「よし」、アウトは「ひけ」、タイムは「停止」というのです。
 さらにルール用語も面白いのです。
ストライクは「正球」、ボールは「悪球」、アウトは「無為」など、と唱えたり放送しなければならなかったのです。
 それらの言葉を使った実況放送が聞きたかったものです。
 そして、試合中の選手交替も延長戦も「日本的精神に反する」との理由で禁止されました。

「死守」という言葉は、すでにその頃から芽生えていたのです。
 さらに、新聞・雑誌・音楽・放送などについても使用禁止の言葉が増えました。
 ニュースを「報道」と言い換えるのはわかるが、日本コロンビアを「日蓄工業」というのは中身が想像つきません。
 そして音階も「ドレミ」を「ハニホ・・」と唱えるなんて、どこが英語でしょうか。
「音楽顕奨」とは何かお分かりになりますか。

 ジャズや軽音楽も「卑属低調(品がなくて俗っぽい)退廃的(廃れて不健全)喧騒的」ということで徹底排除され、残った洋楽は枢軸国(戦争同盟国)だったドイツ・イタリアが中心になりました。

「坊主憎けりゃ、袈裟まで」の徹底した排外主義の珍現象だったのです。
その頃、アメリカでは日本語研究が盛んだというのに。

 石川重義さんは英語が分かりとは、おくびにも出さなかったのです。
 知られたらひどい目にあうことを恐れていたから。でも、投降を呼びかける
英語放送の内容は理解していたので、阿佐村の人たちには速く山を降りるように回って勧めていました。敏子の母親にも「小母さん、アメリカーたちは住民は殺さないから出てきなさいと呼びかけていますよ。早くそうしたら方がいいですよ」と教えてくれました。

 しかし、彼の言うことをすぐ信用するわけにはいきませんでした。
でも、すでに捕虜になっていた人たちがやってきてガマに隠れてた家族や
親戚に収容所の様子を伝えました。

 阿佐村のマチガー小の上原武造さんもその一人です。
 彼は自分の村の中で米兵に捕まり阿真の収容所に連れて行かれました。
 そこで米軍の待遇のよさに驚き、そのことをガマに隠れてる村人たちに告げにやってきたのです。
 彼の説得にすぐに応じる人は少なかったが、用事をすませて、阿真村に帰る途中、阿佐村の自宅で一晩泊まることにしました。
 ところが、寝てるところを日本兵に襲われ、スパイ容疑として処刑されました。畳や壁に血が噴き飛んでいたそうです。

 その事件があってから、石川さんは、これ以上住民の犠牲者を出させてはいけないと英語の使える彼はンチャーラ海岸に陣を張ってる米軍に避難している住民の事情を伝えるつもりだったのでしょう、隠れていたユヒナの片隅にあったヤギ小屋を出て、米兵たちの方へ両手を挙げて歩き出しました。
側には彼に同意した座間味出身の慶留間次夫(工業学校学生)も同様の格好をしてついていました。

 小屋から十数メートルの距離まで来ました。突然、銃声が響きます。
向かいの藪などに隠れてた米兵たちが一斉に銃を構えました。
と同時に石川と慶留間の二人は田圃の中に崩れるように倒れ、動かなくなってしまったのです。
即死でした。投降していく二人は後方から射殺されたのです。
 発砲した山羊小屋に二人と共にそれまで潜んでいた日本兵でした。
すると、たちまち、その銃声に呼応するように米兵たちの一斉射撃が山羊小屋に集中しました。

 戦時中、チシ海岸の砂浜で二人の日本兵が銃殺されました。
 砂川氏の日誌によると、彼らは住民の食料を奪取し、敵前逃亡を企てたという理由で処刑されたようです。
 二人は大学出の召集兵(軍の命令で入隊した兵)でした。
戦後、日本軍、米軍が座間味から引き上げた後もその死体は処理されず
日干しされた銅色をした身体は「大」の字を描いた影法師のようにチシの白い砂浜に放置されてました。

 磯辺に寄せる波の音は昔のまま、二人の上を無情に吹き渡っていました。

宮城恒彦著「投降する者は」より

0 件のコメント:

コメントを投稿