2015年9月30日水曜日

今こそ、民主党に鉄槌を下す時だ

琉球新報を見ながら
2015年9月30日

来年の参議院議員選挙においての野党共闘は夢と消えそうだ。
野党第一、第二政党の立ち位置が定まらない。この民主党、維新の党のスケールメリットを生み出せないのは政党規模にあるのだろう。
それが中途半端になり、小さいが上での排除の論理が優先せざるを得ない。
かと言っても決して一枚岩でもない。
穴の開いた沈みゆく舟でしかない。
この塞ぎようにない穴は、やはり、鳩山由紀夫や小沢一郎への強引な追放過程に起因するのでないか。
たしかに鳩山由紀夫元総理の失政は事実だが、その失敗を誘引し利用したのは現主流派であることは間違いない。
統治能力が足りなかった鳩山氏だが、あるべき国家像を持った政治家であるが故の理想主義者であるのに対し排除を繰り返して残った現民主党には各論を争う政治家ばかりが残ってしまって国家を問える政治家、政党の核となる政治家が育たず、彷徨える政治集団となり何も決められず何もできない舵のない政党であることを露呈した。
安保法国会の経緯や国会終了後の野党共闘の協議において明らかになりつつある。
今や民主党は政党目的のない、政党助成金を受け入れるだけの選挙互助会でしかなく、仮に野党共闘が実現しても民主党中心となれば、また、大きな失敗を繰り返すことは間違いない。
先が見えている、こじんまりとした民主党ありきの野党共闘などは考えずに既成政党に囚われずに大胆な野党共闘を模索し、核となる新党を立ち上げことが日本の政党政治の未来につながる。
維新の党代表松野氏が提唱する民主党との対等合併は政党再編への打開策にはならずに民主維新病とも言える裏切りと排除を繰り返し、大局的政治に向かうことはない。
本気で野党再編を狙うなら野党第一党の民主党より先に野党第三、第四政党をまとめていくのが常套手段となる。
天下取りは手順が大事、松野代表の目的が大志あるものならばであるが緊急避難が目的なら民主党に頭を下げるしか方策はなくなる。
国民が望む野党共闘による選挙を実現させるなら現実的に先に動くのは小さな政党から始めた方が世論との波長を合わせやすく、大きなうねりを作り出す可能性が高い。社民党と生活の党から始めるのが自然だ。野党共闘の中心できない役割は決して民主党でなく、民主党ではできない事を冷静に見つめて戦略的に動けば、死に体の民主党はついてくる。
ついてこなければ、民主党は半減させればいい。その覚悟がなければ野党再編など成しえない。

小沢一郎が民主党に引導を渡せばいい。

反アメリカカングローバリズム勢力の結集での国民党を、社民党、生活の党で作り、共産党と選挙協力を模索すれば、民主党は慌てる。
当然、民主党の反発は必至だが逆に分断することもできる。
ヨーロッパのように基本政策の対抗軸を提示しなければ議論にもらならない。
民主党は対抗軸ではなく修正政策しか出せない。
ダイナミズムの消えた日本みたいな民主党ではダメだ。

2015年9月29日火曜日

とにかくひもじい

8 とにかくひもじい

 戦争が長引くにつれて、村人たちも日本軍も戦いの相手は米軍というより
食料や水を確保することができるかどうかが切実な毎日の仕事になっていました。

 ヌンルルーガマに避難していた村人たちも口にするものがなくて次第に体力が衰えていきます。
 傷を受けた者はどんどん死んでいきました。どうしたら食べられる物が手に入るか、そのことを考えるのに必死でした。

 戦争前に督励されて増産していた作物も村人や日本兵によって根から抜き取られすっかり姿を消してしまっていました。
 後は焼け野が原となった野山にやっと芽を出した食べられる野草を探すことであったが、それもままならぬ状態にあったのです。

 敏子たちは残り少なくなった米を持って、夜になってからアサユヒナまで出かけます。
 明かりもない夜道を星明りをたよりに海岸沿いを歩いていきました。
 沖合いをパトロールしているアメリカの軍艦にも見つからないようにと岩陰を伝ってこっそりと水場を探しました。
 炊事する火が見つけられると、攻撃されるので、工夫して飯を炊きます。
 次々と別のグループが待っているので、急がされます。
 さらに、ガマの中で御飯が来るのを待ちかねている家族がいます。
そのことを思うと期はあせります

 熱い鍋を頭に乗せたまま、来た道を戻るが、満ち潮にあうと脇下まで海水につかりながら海中の岩や石に足をとられないように慎重に歩を進めなければ
なりません。
 なにしろ、頭にはみんなの命とも言える大切な食べ物をいただいているのですから。

 敏子の母は珊瑚礁でアキレス腱を切られてしまい、しばらく歩けなくなったので敏子が煮炊きの役をになうことになりました。
 こんなに苦労して作ってきた御飯ではあるが、一回の量は一人せいぜいお握り一個ぐらいです。
食べ盛りの敏子の兄は御飯を食べ終わる度に「腹いっぱい御飯が食べたい」という言葉が「ご馳走様」のかわりになっていました。

 彼は鰹船の「伝馬ひき」の仕事をしていました。
それは本船が鰹の餌をとり終えたら、使った幾尋もある網を伝馬船に積み上げて母港に持ち帰る役目なのです。
数キロメートルも離れた餌場から一人で三メートル余りもある櫓をこいで帰る体力のいる仕事です。
波の荒い日や風の強い日でも自分ひとりの力がたよりなのです。
だから身体は鍛えられていました。
このような若者が一握りの御飯で満足するはずはありません。

 このままの状態が続くならば餓死を待つだけだ、とガマ内の人たちは考える
ようになりました。
 集団自決を提案する者いたが、ガマから出て行く家族が増えてきたので実施までには至りませんでした。
 その頃から外部の情報がガマにも届くようになっていたのです。
 
 阿真村に収容されている人たちはアメリカーからたくさんの美味しい食べ物が支給され、傷ついた人たちは野戦病院で親切に治療してくれるという話です。
 また、親戚や身内の者を探して収容先の阿真村からやってきた者もいます。
島を囲んでいる艦船からは投降を呼び掛けの声がスピーカーから流れてきます。
 しかし、村人たちは、それらの内容を信じませんでした。
腹いっぱいの食事を与えられた後に殺されるんだ、阿真村に収容されている人たちはそういう運命になるんだ、としか思っていなかったのです。

宮城恒彦著「投降すものは」より

2015年9月28日月曜日

後退する日本軍

7 後退する日本軍

 1945年3月26日の早朝、座間味などに上陸した米軍は50時間内でケラマ諸島を制圧しました。
 迎え撃つ日本軍は海上戦闘のために鍛えられた海上艇進第一戦隊(特幹隊)が主な要員なので、陸上での戦闘にはなれてなかったし、それに、必要な武器・弾薬がまったく不足していたのです。

 物量を誇る米軍の相手ではありませんでした。
 島の後方の山岳地帯(阿佐村の北東に連なる山々)に後退せざるをえなかったのです。
 途中、貧弱な武装で何度かの反撃を実施したが、大半が米軍の近代装備の砲門の前に累々と屍をふやしていくばかりでした。
大和魂だけで勝てるような米軍の戦力ではなかったのです。

 座間味における当時の日本軍の戦況を「座間味戦回顧日誌」(砂川勝美氏 記)の中から拾わせていただきました。

 *「米兵の数名は上陸(座間味26日午前9時)後20分足らずで下の本部壕(タカマタ・高月山の麓)近くまで進行してきた。・・・・・・
我々は応戦するだけの武器もなく全員壕を脱出し高月山に向かった。」

 *「午後7時過ぎ大迫中尉より本部候補生全員に集合命令がかかり、舟艇の出撃は到底不可能、よって我々は陸戦に備え、兵器こそないが、日本人として最後まで戦え・・・と訓示があった。」(3月25日)

 これは次の記録とも関連してます

 *「軍の舟艇整備および出撃準備のため来島(3月23日)していた船舶団長の
大町大佐が沖縄本島へ帰る途中、米軍の警戒網にかかり戦死する。その後つぎのような電報が届いた。
 「・・・ケラマでの状況を実際に視察してきた現状では舟艇の出撃は不能と断定し戦隊は舟艇を破壊し、兵員は島を死守せよとの無電命令が届いた。
直ちに本部から戦隊の各中隊に対して舟艇を破壊し、高月山の後方(シンナークシ)に集結せよと、伝令が走った。」(3月26日)

 この記録でケラマからの米艦隊への海上襲撃は実施されなかったことが証明されます。

 *「十名ほどの米兵が高台の真下近くに迫った時、隊長の号令一下、今まで沈黙していた阿佐平(日誌の状況からチシへ行く台地一帯と推測される。おそらく日本軍の命令した地名であろう)の基地中隊からの一斉攻撃に敵は驚き、後退を始めた。
大迫中尉も機関銃の引き金をひいた。・・・ところが、弾が出ない。バネがない。
唯一の火器が役にたたない以上もう後退しか方法はない。
折から降りだした雨は急に大粒となり、米兵たちも退却を始めた。

 降りだした雨はたちまち土砂降りにかわった。私は(砂川)中尉の命令で皆の大切な蛋白源だと、部隊から預かった二頭のヤギを連れて山に向かった。
 ところがヤギのほうが山道を歩くのが速く、私はすべったり、転んだりしながらヤギにひかれるようにして後をついて行ったが食事もとってなく衰弱している体が耐え切れずとうとう手にしていた縄を放してしまった。」

 *「26日の朝、米軍は古座間味にも上陸した。昼間は全員壕内に潜み、夜になって本隊に合流するため、全員が壕を出て前進を始めたところ、峠(おそらくカンジャー山のアンキナ)の米軍陣地(上陸と同時にブルトーザーがカンジャー山の山肌に道を開けながら
上り、たちまちのうちに頂上に陣地が構築された)から機関銃の攻撃を受け
津村中隊長、榎本少尉、神守候補生が戦死した。
 その後、再度壕から出ようとしたが機関銃の攻撃は前より激しく、第三中隊は、その翌日より古座間味で交戦し、江口少尉、清水候補生らも戦死した。(4月8日)

 *「・・・・大岳の戦闘で日本軍は20数名の戦死者を出し、隊長は脚に、高橋候補生は胸と尻に梅村候補生は手に負傷した。その他多数の負傷者を出し、本隊は全滅したとか・・・」
(4月11日)

 日本兵たちは戦うというより、生き長らえるための食料さがしに懸命になっていた模様です。
そのために命を落とした兵も多く、米軍上陸から10日しか経てないのに日本軍は食料に困り出しています。
また、砂川氏の回顧録を借ります。

 *「艦艇が多くなり、その頃から米軍は日本機の神風特別攻撃を警戒して日暮れから毎日のように煙幕を張るようになった。煙幕が張られ、しばらくたち、辺りに銃声も止んだ頃、島の裏海岸の方から表海岸の一軒家付近に20名くらいの人々が集まってきた
山の草むらに潜んでいた我々も最初は何者かと思っていたが、やがてそれらが島民であることを知り下山した。
島民は感激のあまり兵隊に抱きついてお互いの無事を喜びあった。
その夜は島民の乏しい食料の中から何かしらの夕食が我々にふるまわれた。(3月28日)

 *「座間味部落の敵の幕舎(テント)から糧秣(兵士の食料など)を奪う目的で各隊から21名のゲリラ隊員が選ばれた。そして、隊員たちは三班に分かれて出発したが整備中隊の内藤中尉の班は米軍陣地に突入して全員戦死、本部関係からは間瀬軍曹、高橋、清野、鈴木、出口の四名が参加。
途中、地雷にかかり鈴木候補生は腹部貫通で死亡、間瀬軍曹は鉄帽が裂け、右耳の半分が吹き飛ばされながら夜明けに帰隊した。
清野は腕に負傷しながら戻っていた。(4月5日)

 *「その頃、敵の上陸時に携帯食くらいしか持っていなかった我々は食料に窮しており、日に一度の味噌汁程度の給与が精一杯で、隊員の体力は日々衰弱していくばかりであった。
 その折、整備中隊の数名の兵士が座間味部落に侵入し、農業会壕(学校裏の村三役などが自決した産業組合壕)の自決死体の死臭の中から幾らかの米を運び出し本隊に持ち帰ったことにより我々は多少なりとも急場をしのぐことができた。
 本隊と行動を共にしていた女子青年団員(座間味)は乏しい糧秣の中をいろいろとやりくりして隊員の食事を作ってくれていた。(三月末から4月上旬)

 *「部隊の解散後も毎日のように隊員の傷の手当てにきていた軍医、衛生兵も5月上旬からあまり来なくなった。もうその頃には衛生隊にも薬もなく、赤十字のマークの入った背嚢の中には幾らかのイモしか入ってなかった。(5月中旬)

 「沖縄方面陸軍作戦」によるとケラマ諸島での日本軍の配置と死者は次の
通りと記される。

「座間味」        配置数    死者     生存率
戦隊           104名    (69名)    34%
基地隊          250名    (100名)   60%
船舶工員          50名   (32名)    36%
水上勤務          40名   (15名)    62%

計            444名   (216名)平均48%

「阿嘉島」        配置数    死者    生存率
戦隊           104名    (22名)   79%
基地隊          234名    (65名)   72%
水上勤務          21名    (10名)   52%

計            359名    (97名) 平均68%

「渡嘉敷」        配置数    死者    生存率
戦隊           104名    (21名)   80%
基地隊          216名    (38名)   82%

計            320名    (59名) 平均81%
水上勤務          13名(不詳)

 この記録を見た限り、渡嘉敷に駐屯していた日本軍の生存率が高く、座間味、阿嘉島との差が大きいのはどうしてだろう、と疑問をもつものです。

 太田良博著「戦争の反省」の中で著者はつぎのように述べてます
「米軍の記録は、座間味島、阿嘉島では日本軍の手ごわい反撃にあったと書いてあるが渡嘉敷島の戦闘については特にふれられてない。渡嘉敷住民も戦闘らしい戦闘はなかったと言っている。」さらに続きます。
「・・・・日本軍の抵抗はほとんど無視できるほどのもので米軍は日本軍の応戦より島の地形に悩まされたといっている。
あれだけの砲撃(野砲による500回以上の攻撃の他艦砲射撃、空襲、陸上砲撃)で「陣地らしい陣地もなかった」と赤松隊長が証言している小島で隊員の犠牲は以外と少ない。
・・・・日本軍は抵抗らしい抵抗をやった様子がない。」

 かえって、無関与さえ示唆してます。
米軍の記録によると米軍は日本軍との降伏交渉に臨んだがそれには応ぜず、もし、日本軍陣地に接近さえしなければ、こちらから攻撃を加えることはしない。
米兵たちが渡嘉敷ビーチで水泳しても何もしない、と答えたといわれています。
このような状況では隊員の死者が増えるはずはありません。

 宮城恒彦著「投降する者は」より

ニッポン チャチャ チャ

琉球新報を見ながら
2015年9月28日

VWの問題を伝える日本メディアの上から目線の報道は哀れだ。
言葉表現の端々に間接的な優越性で日本感情を慰めている。
トヨタのライバルであり、ドイツという国の不幸を使い「ニッポン チャチャ チャ」
よく見る国際ニュースの伝え方だ。
政治や事故、災害においても中国や韓国の劣性を伝えることに意味が持ち得る日本の国際的な社会性は健全なのか疑問が生じる。
国際ニュースなのに伝え方の背景は国内ニュースに脚色する必要性だ。
それは日本社会が国内尺度でしか世界を見ること、理解消化することができない宿命にあり、日本独特の統治や庶民の精神性が醸成されてきた歴史から来るものだろう。
国際ニュースなのに国内ニュースと伝える稀な社会なのか万国共通な報道のあり方なのかはわからない。
VWの今回の問題は一大企業の問題には止まらない。
VWの今回の爆弾は2年前から漏れている何故、今のタイミングなのか。
陰謀論と片付けずに無駄でも考えてもいいんじゃあない。

2015年9月25日金曜日

真摯に取り組む奴もいれば、大局見失う奴もいる

先日の共産党の志位委員長の記者会見動画では明確に沖縄を引き合いに出して、国民連合政府構想が可能であると言っている。
その動画を一度見た方がいい。ちょっと長いが、連休前だったはず、安保法成立した翌日という、かなり、早目の対応で戦略的には大正解な発表と判断だと思う。
この話が潰れようが共産党への評価は見違えるほど変わる。
迷える子羊の民主党とは雲泥の差がある。
志位委員長の発言から、その本気度と危機感が伝わるが、改憲派を抱える民主党、維新の党の弱さも見極めているはずで、安倍総理が参院選公約に憲法改正を入れるという発言も、そこを突いたもので、すでに官房機密費などを使って野党国会議員から確約を取っている可能性もある。
要は、自民党と共産党以外は、民主党、維新の党などはカスでしかない。
共産党はダメ元で野党を見切っている。
情勢を見極めながら、民主党がだらしないままで安倍自民党に負けが濃厚になれば、民主党と維新の党は切り捨てて、共産党の議席を増やした方が共産党を除く新しい野党勢力が立ち上がるかもしれない。
三歩退却し、自民党の圧勝になるのが仕方ないのであればだが。

そろそろ大国ぶるのは止めようよ

習近平中国主席が訪米しオバマ大統領と会談とNHKラジオから解説が流れる。
中国の習近平が求める対等な両国関係 G2に対し、アメリカはそれを中々認めず、世界に最も影響力がある二国間関係と言葉を変える。
このような話を聞きながら、日本がアメリカ日本求める対等な日米関係という、とんでもと感じの違和感のある言葉がまかり通る日本世論は正しい国際感覚なのだろうか。
言葉に対して、かなり、鈍感な内向きの自己中の視野ではないかな。
世界が受け入れられる言葉、外交、国際的に違和感のない言葉が必要ではないか。今の絶対中心主義とも言える世界観から、そろそろ脱却することが外交、安全保障からも考えたら方が無茶な冒険よりもいいのではないかな。
巨大国家に挟まれた緩衝国家でもよくない。
実際、安保法に求められているそのものだろう。

ガマの中

6 ガマの中では

 敏子の家族は空襲が始まって間もなくして移動してました。
 始めのうちは避難している家族も少なく、広々とした場所の確保ができました。

 ガマの中は空気もひんやりとして、春まだ浅い頃なのに寒さをそれほど感じませんでした。
 しかし、日がたつにつれて隣の座間味の人たちも続々とヌンルルーガマにやってきたのです。

 敏子の家族は次第に奥の方に詰められていきました。
 最初は布団などを敷いて寝ることもできたが、人数が増えてきて、足も伸ばせないほど自分の居場所が狭まれしまいました。
 とうとう座ったまま眠る状態になってしまったのです。
 奥になるにつれて風通しが悪くて、人いきれや持ち込んだ衣類や道具の匂いでむんむんとして、気分が悪くなります。

 おまけに、奥は避難している人たちのトイレになってしまいました。
ガマから少し外に出れば心地よい潮風を吸いながら用足しができるのに、わざわざ奥を使うのです。
 用便のその姿は、あたかも、冬の夜空の雲間からほの白い半月が浮かび
出て来るような寒々とした光景に映りました。
「恥も外聞もない」とはこういうことを言うのでしょうか。
 敏子たちの回りには複雑な、そして、異様な匂いが立ち込めていました。
ガマの中での生活は「大変」としか言いようのない惨めなものでした。
 
 こういう場所には幼い子供たちが我慢できるはずもありません。
 食べ物はもちろん母親の乳さえもらえない。
おまけに息がつまるような空気の中です。
 生後二ヶ月になったばかりの敏子の妹ノリ子と座間味のヌンルチ小の良光の
二人が泣き出しました。
すると、回りの男たちが声を荒立てて叫ぶのです。

「どこの子だ。泣く子は殺して捨ててしまえ。」
「この子たちの泣き声を聞いてアメリカーがやってきて、みんな撃ち殺されてしまうんだ」
「口をふさげ。でなければ、ここから出て行け。」
という怒声や罵声が矢のように乳飲み子を抱いている母親たちの胸に刺さります。

 敏子が声の主に目を向けてみると、その人たちは村会議員や座間味の有力者と言われている面々です。
 睨んでいる顔が鬼に映りました。
娘をひしと抱き、おびえている母の顔はかちかちになり、うす暗いガマの中でも青白く浮かんで見えました。
 
 決断した敏子の母は隠すように娘を懐に抱えてガマから出て行きました。
 次第に遠のいていく妹の泣き声を空ろな気持ちで敏子は聞いていました。

 母親キクは泣き止まぬ娘を抱いて隠れ家になる岩間をさがすことにしました。幸いに潮が引いていたので、浅瀬を歩いてガマから距離をとることができました。
 ある浅い岩陰に寄り添って、乳の出ない乳首に娘の口をあてて泣き止まそうと試みるが、苦しませるだけで娘は一層激しく泣くのです。

 米兵に発見されて殺されてもかまわな

いとあきらめて、娘の泣くがままにま

かせていました。
それでも、寒さで冷えた我が子をひしと抱いて夜空に広がる星に祈るような
気持ちで子守歌を歌って寝付かせようと声を出そうとしたが、歌になりませんでした。
 汀をなでる優しい小波が心地よく聞こえてくるばかりです。

 娘は泣き疲れて眠ってしまったのか、いつの間にか静かになりました。
吸い込まれるように母親も睡魔に襲われ深い眠りに入りました。
 寒さと波の騒ぐ音で目がさめました。 夜は明けてました。

 極限状態におかれた人間は他人に配慮したり、気遣いしたりする心の余裕
なんてまったくありません。自分や家族のことしか考えないのです。
 食べられるものが次第に不足してくると、側に腹をすかせている子供が泣いていても自分の口に入れてしまうほどの卑しい行動をとるものなのです。

 一歩ガマから出ると、そこには青い目をした恐ろしい「鬼畜米英」の兵隊が銃を向けて待ち構えているという幻想があるのです。
 ところが、そのヌンルルーガマの位置は三方が高い険しい崖に囲まれており
しかも、前面の海岸は引き潮でないと、人は渡ってこれない場所なのです。
さらに、ガマの前にはアダンの藪が入り口を隠すように茂っていて、格好の隠れ家になっているのです。
アメリカーでもやすやすと近寄れる場所ではないのです。

 ガマに隠れている数百名の食料や水の確保には大変な努力が必要です。
 上陸前に増産で作っていた作物も住民と日本兵の奪い合いで姿を消し、さらに、非常食として持っていた黒砂糖や鰹節も食べつくしていました。
 後は、どうにか隠し持っていた数えられるほどの米粒に野草をちぎって入れて作った重湯のようなジューシーが最高の食べ物となりました。

 それを作りに行くにも、ガマの前の海岸を脇まで海水につかりながら渡り
水場まで歩かなければなりません。
そして、食べ物が冷めないうちにと、熱い鍋を頭に乗せて海の中を歩いて
帰るのです。
 男性はほとんど防衛隊に入隊し、軍と行動を共にしているので、頼りになりません
食事の調達は女性だけの仕事になりました。
しかし、次第に米がなくなり、食べられる物も姿を消しいきます。
ガマに潜んでいる人たちは日に日に衰弱していくのがわかります。

 その苦しい状況を見かねた小父さんが一人で食料探しにガマを出て行きました。
しかし、ニ三日たってもなかなか帰ってきません。
 様子が気になりだした四日後に全身を傷だらけにして苦痛に満ちた顔で帰ってきました。
 ところが、手には食料らしいものは持っていません。
敏子の側に倒れるように横になった彼は苦しそうに息をしながら途切れ途切れにその状況を語ってくれました。

 海岸沿いは満ち潮で通れないものだから、泳ぎに自信ない彼は山越えをしようと崖をよじ登りました。
 ところが足を滑らせて十数メートル下に転げ落ちてしまったのです
 岩かどなどに体のあちこちを打ち付けられて、切り傷、打撲傷、捻挫などと
痛手を負い動けなくなっていました。
苦しみながらその場にいたが力を搾り出して、よろけるように歩きながらやっとガマについたのです
ガマからそう遠い現場でもないのにその事故に気づく者はいませんでした

 鬱血してはれ上がったぶぶんは割れたビンのかけらで切り裂いて血を出したが他の負傷した部分の治療の方法は見つかりません。
 薬とか包帯なんてまったくないガマの中です。
布を探そうにも、みんな着の身着のままの姿です回りの人たちは何もできません。
彼に声をかけてくれる人もいないし、まして、勇気づける者もいません。
数日間、うなり続けていました。
その声で敏子は眠れませんでした。

 やっと静かになったと思ったら、小父さんは敏子の側で冷たくなっていました。
悲しむ者はいません。
明日はわが身になるかも知れないと思っているのです。

 夜も遅くなって二人の小母さんがモッコに遺体を乗せて運び、近くの砂浜に
埋葬しました。
 その方は他人のために自分の命を失った座間味の大城松三さん(ウフグスク小)でした。
 
 瞬く星とさざなみがやさしく弔ってくれているようでした。

  宮城恒彦著「投降する者は」より

2015年9月24日木曜日

ヌンルルーガマへ 沖縄戦争体験記

五 ヌンルルーガマへ

 3月23日、地獄のような戦場の始まりです。
 その日の昼近く、阿佐村の上空を小型飛行機が四機通過していきました。
攻撃はありません。
 すると、海向こうの渡嘉敷の上空から数機の艦載機が阿佐村の上を旋回しながら座間味の方へ去っていきました。
しばらくすると、雷鳴のような爆発音がおこり、南の方から黒い煙が流れてきました。

 阿佐村への攻撃ではないのに敏子は近くの防空壕に飛び込んで、遠くに聞く攻撃の轟きに震えていました。
 しかし、飛行機が撃ち込んだ焼夷弾によって辺りの山野は大火事になりました。
 村の近くまで火が近づいてきたので、家族の者と一緒にウトゥミジ(ンチャーラ村の入り口)に掘っていた自分たちの壕に避難することになりました。
 そこには、非常食として大事にしていた黒砂糖や鰹節など前もって保管されていました。
 
 家族は8名でしたが、その頃は両親、四男の芳雄、次女のノリ子、そして、敏子の五人が島で暮らしていました。
長兄の芳信は出征中。
次男の芳盛は佐世保の砲術学校に入学。(後日、分かったことだが、戦争が近づいてから沖縄本島に移動させられ沖縄戦で戦死する。その場所不明)
 海軍に志願した三男芳三は沖縄戦が始まる前に鹿児島への渡航中、乗っていた船が米軍の潜水艦に撃沈され死亡しました。

 父は「もし、アメリカーが上陸してきて見つかったらいけないので、あなたたちは壕のずっと奥で壁にくっつくようにして隠れていなさい。」と子供たちに注意しました。
その時、父の頭がおかしくなったのではないか、と敏子は疑いました。
 だって、日本が戦に負けるはずがない、と信じていたし、さらに、米軍が押し寄せて来ても、友軍が助けにくるか、神風が吹いて米艦隊を沈めてしまうと、学校でも教えられ、さらに、日本兵たちにも信じ込まされていたから、まして、米軍が上陸してくるなんて夢にも思っていなかったので、父の言葉に反発したくなる気持ちがわいてきたのです。

 しかし、すさまじい数に艦載機の攻撃の様子からして、友軍の救援は当てにならないような気もしました。
 上空の何処にも日の丸の飛行機の姿は見えません。
 アメリカのグラマン艦載機だけが自由自在にガソリンを山野や集落にまいた後に機銃掃射とともに焼夷弾も撃ちこんであたりを火の海にしていくのです。
 火の勢いは衰えることなく、敏子たちが隠れている防空壕の近くまで襲ってきました。

 危険を感じた家族は夜遅くから悲鳴を上げているように燃え広がる山火事を
避けながら、島の裏にある自然の洞窟であるヌンルルーガマに移動すること
にしました。

 ありったけの食料や衣類や布団などを全員で分担して担いだり、背負ったりして運びました。
 母は乳飲み子の末娘のノリ子を帯でしっかりとゆわえて背負っています。
敏子は食料の入った鍋を大事に頭に乗せて暗い夜道を黙々と歩いていきました。
それぞれが自分の持っている荷物を運ぶのに精一杯で話をする者はいません。
 そして、これから襲ってくるであろう巨大な悪魔に追われるような恐怖心にかられていたのです。

 ヌンルルーガマに移動し隠れたものの、昼は米軍の空襲や艦砲射撃がひどいので、飯を炊く余裕はありません。
ガマの中の子供たちはひもじさで泣き叫びます。
 その声に押し出されるように敏子たちは夜間、水場を探して米を炊きに出かけます。
 水さえあれば、どんな状態のものでもかまいませんでした。
 持ち帰ったご飯を見たら、複雑な色をしていました。
飲み水としてカメに汲んできた水は鼻を近づけることのできないほどの匂いを放っていましたが、渇きには勝てません。
 回りの人たちが寄ってたかってきて飲み、瞬く間になくなる状態でした。
昼間その場所を見ると、そこは洗濯する場所であり、ヤギの屠殺場にもなっているのです。
ハエのたかった臓物が膨らんで浮いてます。
水を求めてやってきたのか、日本兵の死体も浮かんでいる時もありました。

 宮城恒彦著「投降する者は」より

闇雲に叩くことの愚かしさ

安保法が成立し、共産党の野党共闘の提案、国民連合政府案が民主党へ投げかけられてから、日本会議、民主党日本会議メンバーへの攻撃が過熱している。

気持ちは分かるが、果たして、それは今、優先すべき問題だろうか?
そもそも、日本会議のメンバーのほとんどは自民党議員で占められ、その活動が活発になったのは安倍政権になってからだ。
日本会議批判の本丸は自民党議員でなければ意味がない。
数人の自民党議員以外の旧来から野党
メンバーを取り分け引き出して批難し叩くメリットはどこにあるのか。自民党を利するだけではないかな。
もしかしたら、自民党の工作員かも知れない位にタイムリーに野党分裂への効果が見込まれる巧妙な作戦とも思われる。

自民党議員の日本会議メンバーを責めてた方がより効果的な作用が間接的に民主党の日本会議メンバーへ伝わるとは考えないのか。無言の圧力になる。
因みに、小沢一郎も日本会議メンバーである。野党の日本会議メンバーを今、責め立てれば野党共闘など成り立ちにくい。それは所詮、野党潰しの哀れな自虐行為にしかならない。
内部矛盾ばかりに目を向けずに外に視野を広げる時に手っ取り早く内なる異物拾いを始める左派のサガは絶望的な習性に気づくかないといつまでも自己陶酔のポジショントークでのマスターベーションでまた終わってしまう。
本気で共産党の言う野党共闘を望むなら北風作戦よる太陽政策を取るのが知恵ある国民ではないだろうか。
この時に及んで野党第一党への攻撃しか思いつかない勢力こそ野党日本会議メンバーより悪質な排除すべき言動で批難されるべき行為にしか見えない。
私が批判する日本会議は自民党、安倍政権下で活動を活発化した勢力で政権や選挙に影響を与える勢力と分けている

2015年9月22日火曜日

賑わう演芸会 沖縄戦争体験記

四 賑わう演芸会

 米軍の艦載機による英泉丸の襲撃事件は戦争近しの前触れとして島の人たちを不安に陥れましたが日本軍にとって戦場における一部の死傷者と考えていたのでしょう。
 関心もうすく村人のような動揺は見られませんでした。

 それでも、予定されていた軍主催の演芸会は実施されました。それは、日頃のストレスを噴出させたような盛況ぶりでした。
 出演者は「おらが県の十八番をみよ」とばかり熱が入っていました。
兵隊たちは、それぞれ故郷を思い出したのでしょう、自分の県の出し物には
盛大な拍手を送っていました。

 特に、それまで見たこともない女形の演技には笑いと拍手が続きます。
会場の人たちを歓喜の渦に巻き込み、そのどよめきが晴れた秋空に吸い込まれていきました

 座間味からは国防婦人会や女子青年団の友情出演もありました。
女子青年団の役員たちが教えたという「安里やゆんた」の踊りと唄は人気を博し、その後、兵隊たちが機会ある度に口ずさむメロディーとなりました。

 サー 君は野中のいばらの花よ
   サーユイユイ
 暮れて帰ればやれほにひきとめる
  マタ ハーリーヌチンダラ カヌシャマヨ

 特に、はやしの「ハーリヌ チンダラ カヌシャマヨー」のくだりは
「ハーメーが死んだら神様よ」と方言に言い換えられ、喜んで唄っていました。
 
 回りをテントで囲っただけの仮設の簡単な舞台でした。
バックの風景もなく、手作りの粗末な装置・衣装での演出ではあったが出演者は真剣そのもので、軍律の厳しさを忘れ、一時の名優になっての熱演でした。

 九州出身が多かったのか「月がでた出た 月が出た・・・」の「炭鉱節」や「長崎物語」「紅い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る・・・」
の踊りや歌は好評でした。
楽器や伴奏もなく、ましてや、マイクなんてありません。

 肉声だけでの演技だったが初めて兵隊と島の人たちが一つになって浜辺の原っぱに展開された最高のエンターティメントでした。

 しかし、この行事は初めてで終わりの催しとなってしまいました。
数ヵ月後に地獄を見る島になるとは神ならぬ身の知る由もなかったのです。

 十・十空襲によって村の連絡船の鹿島丸が那覇の港で撃沈されてから、人や生活物資の正常な運搬や搬入ができなくなり、ますます暮らしは苦しい状況に追い込まれました。

 孤立無援となった島は自分たちの力で生き延びる方法を考えなければならない苦境にたたされたのです。
 入り江の岩陰に隠していて、どうにか空襲から逃れていた漁船を日本軍は徴用して那覇との連絡に使っていたようです

 年が明けて昭和20年に入ると、戦争の雲行きがいよいよ怪しくなってきます。
 二月の末頃、高月山や阿真方面の上空に、夜になると数回にわたって信号弾のような物が打ち上げられることがありました。

 兵隊たちは非常呼集をかけられ、現場と思われた場所に出かけ探索したが証拠をつかむまでにはいたりませんでした。

 そして、米機動部隊による大空襲を一日前にした3月22日、阿真シルの海岸をパトロールしていた日本兵たちは漂着していたアメリカ製のゴムボートを発見しました。

 米兵たちは浮上した潜水艦から島に上陸し、偵察を終えた後、仲間への合図のあの信号弾を打ち上げ連れ戻されたのだろうと、隊長は推察してました。

 ボートの空気は七割がた残っていて、携帯食の包みや飲み物がボートの中や
砂浜に散乱してました。
 間違いなく米兵たちは上陸していたのです。(この信号弾の話は元日本兵の
砂川勝美氏の手記を参考にする)

 また、こんな話も残ってます。座間味を占拠した米兵たちが番所山を探索し上陸前に印をつけた木の幹を確認したということです。
 座間味島の裏海岸に夜間、潜水艦からボートで降りた米軍の斥候兵が獣道を登り島を偵察した証拠です。
上陸以前にかれらはすでに島の地形を把握していたかも知れません。

 宮城恒彦著「投降する者は」より

国連人権理事会総会演説と参議院議員選挙野党共闘

琉球新報を見ながら
2015年9月22日

翁長知事の国連人権理事会総会での演説、新聞紙上での表現、言葉のインパクトは弱く感じる。
英語での2分間のスピーチでどうなんだろうと、しかし、国際社会での積み重ねや国連人権理事会総会での演説は無視できないものという証明を映像メディアから伝わってきた。
お昼のNHKニュース、トップは翁長知事の国連人権理事会総会での演説で、注目すべきは、その場で日本政府が発言権を行使し反論したことだ。

先進国として、なんと、みっともないことだが国際的な公式の場では反論しないといけないのだろう。
国際社会の公式の場で日本政府の反論を引き出したのは大きな成果だ。
問題があることを認めたことになる。
そして、アメリカ政府も直ぐに反応し翁長知事の演説内容を否定した。
文字では伝わらない映像、テレビ報道が国連演説を効果的に伝えている。
事件事故など瞬発力のあるニュースと違い人権問題としての基地問題は報道ベースでは地味で伝えにくい。

来年の宜野湾市長選挙と沖縄選挙区の参議院議員選挙の候補者が決まった。
発言の多くが元革新統一側になっているのが気にかかる。
オール沖縄という保革を超えた政治勢力の保守側の発言が目に付かず、誤解を与えないか状況、情勢が分かりにくい。
オール沖縄の翁長知事、辺野古反対の世論、安保法成立への世論の反発など、追い風ばかりだが驕らずに詰めをしっかりやって欲しい。
特に参議院議員選挙の伊波氏、オール沖縄の21世紀ビジョンとの関わり整合性を無視しては危険だろう。時代は変わって前回とは違う脱皮した伊波洋一の姿や発言が見られるのか期待したい。
存在すること、選挙に勝つだけの政治家ばかりを国政に送ることにらならないように沖縄経済会との話し合いもしっかりと消化アピールすることがこれからの国会議員に求められる。

読売新聞9月22日の記事が面白い。
野党共闘で参議院議員選挙1人区で7選挙区が逆転する可能性があるという記事だ。

2015年9月20日日曜日

辺野古テント襲撃の余波、日本会議系政治家の動きをあぶりだせ

琉球新報を見ながら
2015年9月19日

襲撃の前の動画
昨日深夜の辺野古ゲート前テントへの右翼日思会の襲撃事件は酷いものだ。
警察への通報は無視され、現場へ警察が到着するまでには6時間もかけている。
意図的に右翼に時間を与え、ゲート前での抗議者へ圧力を警察は狙った一石二鳥を作り上げた。
玄葉には基地警護の機動隊もいたが市民の安全を守る命令はなく、基地警護を全うした。
公務員は違法犯罪行為を告発する義務がある。その警察官が止めもせず傍観する目的は乱闘を助長し辺野古ゲート前抗議参加者を狙い撃ちにして逮捕するチャンスを作りたかったのだろう。
それに冷静に対応できた現場は頑張った。

トラブルを起こさせ乱闘を起こし辺野古反対抗議を潰そうとする。
事前にネットで襲撃の拡散を右翼の過激は行ってからの襲撃である。
警察の公安の汚さが見え隠れ、知らないどころか共犯と思うのは当然だ。
殴られても何もしない警察がその場にいたのだから。
深夜に普天間と違い辺野古へ駆けつけるのは想像以上に大変だ。しかし、今後このようなことが続けば辺野古へ向かう人は増えていくだろう。

 辺野古移設賛成派の今回のような行為は逆効果しか生まない。立場を苦しくするだけだ。
 来年の選挙にも間違いなく影響する。
能天気にFacebookで「いいね」など押していたらスクショで拡散するぞ。

の映像が即座に流れる時代に暴力的過激な行動は嫌われる。
嫌悪感しかない。
彼等に支持され、または彼等へエールを送る政治家は気をつけないと終わってしまう。
気をつけようね。
つぶやきハルキくん。

2015年9月19日土曜日

安保法、三日間の攻防

琉球新報を見ながら
2015年9月19日 旧8月7日

14日月曜日からの一週間が慌しく過ぎて行った。
阿蘇山が噴火し、その直後に翁長沖縄県知事が辺野古埋め立て承認取り消しを表明した月曜日に始まり、15日、16日と安保法案の中央、地方の公聴会。

 公聴会での公述人の意見もかなり厳しくなった。
横浜での地方公聴会終了後、突然響き渡る鴻池委員長の怒鳴り声、傍聴者の強行採決はさせないのヤジに反応した苦しい立場の現れか。その後直ぐに予定されている特別委員会審議打ち切り終了への批判もあり、苛立ちは隠せない。
会場の外では辺野古ゲート前かと思わず目を疑うかのような身体を張った道路封鎖に騒然とする。
それをNHKが生々しく映像で中継してしまう。夕方のニュース時間帯に重なり各民放も次々と道路に寝転ぶ数十名と警察との揉み合いの映像を流す。
そこからNHKが止まらない翌日の特別委員会採決まで随時中継を行った。
16日から17日、18日と三日間に渡って徹夜の攻防になる。

この三日間の攻防の山場は、やはり、9月17日の攻防だろう。朝の8時30分再開から与党側に主導権を取られ、特別委員会での不意をついた強行採決だろう。
この日の午前3時半に委員会が散会したあと与党側は入念な作戦とリハーサルをやり強行採決に備えた。
野党は各党の調整などに追われ、与党の動きを察知できず、口を開けてあたふたするばかりになってしまう。
本来はあと1日、土曜日の夜まで頑張れる自信はあったはずだが強行採決を止められず土曜日のデモまで持ちこたえることができなかった。
強行採決で失った日程と時間は大きい。

与党側の本会議での討論時間制限で野党は追い詰められる。
牛歩戦術はテレビ中継が入ることで批判を恐れたのだろう。三割を超える国民中間層へのイメージを考慮し政党戦術とせず個人判断に任せた結果、山本太郎だけになる。
しかし、他に手はなかったか、手当たり次第に問責決議案も考えられる。
しかし、ダメージも出てくる。今後の野党協力への影響だろう。
山本太郎議員もやり過ぎに注意しながらの行動と言動が強く感じられた三日間。

支持者受けはしたが永田町では、やり過ぎは野党協力の阻害要因にもなり得る。
あと半日強引に粘る効果と影響はどうしても天秤になる。

2015年9月18日金曜日

9・17の政変、多数与党による国家クーデター

琉球新報を見ながら
2015年9月18日

参議院特別委員会は16日17日と徹夜で与野党の攻防がなされている。
ライブで見ていると気づかないことや勘違いも生じてくる。
注目すべきは昨日の参議院特別委員会での採決である。
委員会に関係ない議員が委員会審議を妨害し委員会を乗っ取った事実が明らかになってきた。
本日の記事に詳しく載っている。



以下、引用  琉球新報記事から抜粋

自民党幹部が明かした採決強行のシナリオは綿密に練られた。
関係者によると、与党が当初想定した特別委員会採決を諦めた後、17日未明の理事会休憩で野党を含め関係者が引き揚げた午前6時ごろ、自民党若手議員と鴻池祥肇委員長がひそかに国会内に集まった。

実際の第1委員会室の委員長席に座り、合図に従い若手が駆け寄るリハーサルを繰り返した。
中略
安倍総理が入室したことに気を取られた隙に自民党若手議員が鴻池祥肇委員長を取り囲む壁を作り、それを見た野党議員の多くが最終質疑を飛ばし強行採決の与党の意図を察知したが遅きに失した。


以上までが引用

かなりの問題のある行為であることに当事者である与党国会議員は気づいているのだろうか。

あれは正しくクーデターそのものである。それに多くのひとは気づいていない。多数与党がクーデターなどする必要がないと思い込んでいる。
事前にリハーサルまで行われて、完全に委員会を制圧し強制的に委員会委員で構成される委員の採決権を奪った行為である。

この酷さに私も最初は気づいていなかった。事の重大さに気づかなかった。
ニュース動画と記事と合わせて見ると分かると思う。
何故、勘違いが生じるのか? 抗議し混乱、乱闘して阻止するのは数の少ない野党がやるものと決めつけているから、多数の与党が委員長席を占拠しても野党がやっていると思い込んでしまう。
不意を突かれた野党の議員は成すすべなく遠巻きに見つめるだけになっている。

さらに酷いのは参議院本会議での問責動議での討論での時間制限を掛けるなど、言論封圧は、これほど恐ろしい姿はない。
横浜で行われた地方公聴会で多くの公聴人が述べた危惧そのものが図らずも数日も待たず国会で具現化され中継された。
9・17国家クーデターに等しい。これが許されれば、あとは何でもありの国家へ突き進む、前進するのみの一本道を踏み出した。
国会で国会議員にさえ言論が自由にできない。いずれ、この考えはすべての国民に真綿で首を絞めるように迫ってくる。

2015年9月16日水曜日

10・10 空襲

三 十・十空襲

 日本軍が座間味島に駐屯してから島の人たちは友軍の戦闘態勢に協力するように組み込まれていきました。

 小学校の生徒は燃料用の薪取り、高等科生は遠く離れた阿佐のマチャン原での開墾と農作物作りにかり出されました。
 大人たちは一坪でも広く耕し、少しでも多く食料増産に努めるように督励されました。


 昭和19年の10月10日、その日は快晴の日曜日でした。
 初めて経験するアメリカの艦載機による空襲があったのです。
 どのように避難していいか分からず、阿佐村の人たちも右往左往して逃げ惑いました。

 高等科1年生だった高江州敏子は急いで逃げ込んだ誰もいない坊空壕の中で震えていました。
 家族はそれぞれの仕事に出かけており、家でひとり留守番をしている時に
空襲にあったのです。
 怖い夢の中をさまよっているようでした。

 艦載機の一群は渡嘉敷の上空から高度をさげて阿佐村に突進してきます。
 しかし、攻撃の対象は船舶のようで、海岸線に沿って旋回しながら攻撃態勢にはいっていたが、港には獲物を見つけることができなくて、そのまま阿佐村の上空を通過して座間味の方へ姿を消していきました。
 しばらくすると座間味の方から機銃の音に混じって爆発音が聞こえてきました。

 空襲はその日一日で終わりました。
空襲警報も解除になり、翌日からは飛行機の姿も消え、村人たちは平常の
仕事につきました。

 生徒たちは学校に通いましたが敏子はあの空襲の恐怖がまだ取れず、通学を拒み、しばらく学校を休みました。

 家の人の勧めや友人の誘いにまけてやっと数日後に登校したら担任の先生にひどくしかられました。
「こんな弱い子であってはいけない。本当の戦争になったらどうするつもり・・・」

 敏子は下をむいて黙って先生の叱声を聞いていました。
 先生の説教は長々と続いていたが、その辛さより、あの飛行機の爆音の怖さがまだ尾を引いていたのです。
先生がどんなことを言ったのか耳に残りませんでした。

 日本軍が島に駐屯してひと月たった頃、日本兵と村人との親睦をはかる目的で演芸会が計画され、兵隊たちや村人たちもその準備に取り掛かっていました。
 国防婦人会の役員たちはその日に提供する飲食物のメニュー作りに走り回っていました。
 座間味の海岸近くの草原(今の総合離島センターの位置に)には仮設の舞台も作られました。

 座間味港の岩陰に避難させていたので、空襲から助かった島の鰹漁船の新盛丸と新興丸は那覇との連絡船として軍に徴用されました。

 鰹船としては、たった一隻残された阿佐村の所属の英泉丸は演芸会後の親睦会に使う海の幸を求めて鰹釣りに出かけていました。


 空襲のあった10月10日は天気にも恵まれ、英泉丸は近海でとれた鰹を満載して意気揚々と帰途についてました。
「今日は兵隊たちや村人たちにも久しぶりに美味しい鰹が食べてもらえる」
と船員たちは満足し、「パンパンパン・・・」と焼玉エンジンも
リズミカルに音を立てながら、座間味港への岬の近くまでやってきました。

 ザマンウルンヌサチ(現在のマリリンの像所在地)の沖にさしかかった時です。
 右前方の阿波連の上空から二機の飛行機が低空してきました。
アッという間もなく「ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、・・・」「ダ、ダ、ダ、・・・・ダ、・・・ ・・」と機銃掃射して、屋嘉比の方へ飛び去っていきました。

 船には当たらずに海面に「チュッ、チュッ、チュッ」と小さな飛沫の長い列を作っていきます。

 船体には当たらないので、いたずらに発射した日本軍の飛行機の演習だろう、と船員たちは思いました。
 しかし、実弾を発射している事と、さらに両翼には星のマークがついているので敵機だと判断した船長は舵を握っている船員に「早く船を阿真の港へ向けろ!」と大声で命じました。
 この突然の出来事にうろたえた船員の一人は海に飛び込んで岬の方に泳いで逃げました。

 阿真に戻るのは、もう遅いと覚悟した船長は船をアカエー(今の村の運動場から岬よりの方)の岩陰に乗り上げようとエンジンを全開にさせました。
しかし、所詮飛行機のスピードには勝てません。
 また、阿波連の方から海面すれすれに低空し、間違いなく英泉丸を狙って直進してくる二機の敵機に遭いました。
「だ、だ、だ、だ、・・・」「だ、だ、だ、だ、・・・」と機銃を掃射し、「ブォーン ブォーン」と爆音を残して、瞬く間に飛び去っていきました。

 連発された弾が今度はエンジンに当たって完全に機能が止まってしまいました。
 動けない獲物は格好の攻撃の餌食になります。
 敵機は二、三回、旋回を繰り返しながら英泉丸を食い殺しにかかってきます。
矢のように赤い線を引いてる弾も見えます。

 突然の空襲で船内は混乱してしまいました。

 機関室に隠れていた船員の大城喜功(ウーグスク)と大城亀(ミージョー小)の二人は燃え始めた船内の熱さにたえられず、飛び出そうとしたところを再び発射された機銃に撃たれ、その場に倒れました。
 船長の宮平太郎も背部から弾が貫通していました。
 敵機は海中を泳いで逃げる者にも機銃を浴びせました。

 船員たちは飛行機の攻撃の合間をぬって負傷した者を本船に積んでいた
伝馬船に乗せ元気そうな者が総がかりで櫓をそれこそ死に物狂いに漕いで
岸にたどり着きました。

 そして、すぐに負傷者を日本軍が設置していた病院に運びました。
しかし、病院といっても名ばかりの、ただの民家だったのです。

 大城喜功は即死の状態でした。他の二人の出血はどうにか止まったものの、
大城亀は重体でした。
 手当てをしてくれる者がいるわけでもないし、狼狽している家族の者も応急処置がわからず悶え苦しむ負傷者をただ側で泣きながら見ているだけでした。
とうとう亀は息を引き取りました。

 防空壕に避難していた阿佐村の人たちは、その騒ぎを日本軍の事故だと
受け取っていました。
 だれ一人自分の村の船がアメリカの飛行機にやられたとは考えてもいなかったのです。
 ましてや、その中に身内の者がいると思う人はいませんでした。

 この空襲で亡くなった人たちが座間味における沖縄戦の最初の犠牲者と
なりました。
 そのことで不気味な戦雲の雲行きが島全体をおおうことになります。
それは、その後に襲ってきたあの地獄絵のような戦場への序曲だったのです。

宮城恒彦著「投降する者は」より


2015年9月14日月曜日

60日ルール期限が過ぎて

琉球新報を見ながら
2015年9月14日

 朝10時からの翁長知事の記者会見を予定してか、朝刊一面が地味な構成だ。


 インターネット中継で始まった翁長知事の埋め立て承認取り消し表明記者会見、表現的にインパクトが弱くならざるを得ない行政手続きな問題があり仕方ない。
 マスコミ見出しとの乖離は否めない。実務的に進めていく地味さが素人には政治的アピールが難しい。


 今日、一番のインパクトは国会中継での公明党山口代表の発言だ。安保法案の60日ルールを持ち出し強行姿勢を滲ませる。
日程的な際どさが発言につながったのだろうが意図的に採決ムードにしたいのだろう。
裏では採決について自民党から民主党への打診が伝えられる。公聴会を吹っ飛ばすことはないだろうな?
17日とも言われているが昨日の与野党討論での公聴会後に直ぐ採決は公聴会での聞き取りの意味がなく審議を続けるよう野党から指摘され、日程がこれ以上、延びるような空気を断ち切りたい与党の発言だろう。
有無を言わさず採決へと進む再確認の必要か。

今日、明日行われる与野党五党協議や維新の党との協議もどうなるか。
自民党が妥協するとは思えないが、何が起こるかわからないのが政治。
特に維新の党は揺れているな。代表の松野、少しだけトーンダウン気味に感じるが。

 国会中継が5時で終わり、山本太郎の中継は深夜の録画放送に回されたか。NHKの相撲放送の大義名分での計算か、午前中はEテレに切り替えたが微塵もその気はないな。