完
額から外して写真だけを巻いて持ち歩けば苦労はしないのに、敏子には、その遺影の額が兄に思えて、どうしても、そうする気持ちになれませんでした。
額を外したら兄が遠くに行ってしまうような惜別の情が強く敏子の心の中に
宿っていたのです。
また、家族全員がこのような地獄のような戦場の中をくぐりぬけることができたのは兄の写真が守り神になってくれたのだと信じる気持ちも重なっていたのです。
収容所となっていた阿真村の入り口では二世の通訳も加わった米兵たちが山から降りてくる避難民のチェックをしてました。
その姿があまりにも惨めな服装や汚れた体なので触れないのか、銃口の先だけを左右に動かして通行の許可を出していました。
ところが、布団を担いで先に着いているはずの日本兵の姿がそこには見えません。
見回すと、米兵たちが点検している近くに自分たちの布団は放置されていました。
彼は日本兵だと見破られ、連行されていったようでした。
阿真に収容された他の家族の中にも亡くなった身内の者もたくさんいるが、写真を持っている家族はいませんでした。
たくさんの人たちがすし詰めで寝起きしている狭い部屋の中で自分たちだけの写真を置く勇気もなく母は額から外して自分の着物の襟の辺りに縫込みいつも持ち歩いていました。
自宅に置いてあった戦前の写真はみんな消えてしまったのに、母のおかげで三男の写真だけが今も残っています。
山から降りてくる村人たちが続々と増え、阿真村だけでは収容できなくなりました。
それで、座間味の一部の人たちと敏子たち阿佐出身の人たちは阿佐村に移動することになりました。
阿真峠から見下ろすと、座間味の村は家が5,6軒しか残っていません。
各家々の屋敷はブルトーザーで敷きならされ、村は山裾まで見渡される広場となっています。
そこには、整然と米軍のテントが張られていました。
そして、あちこちに軍需物資が山積みされ、道もなく自由自在にジープやトラックが行き交ってます
沖には数多の艦船が連なった黒い浮き桟橋のように停泊してます。
あの唸る艦砲射撃を打ちまくった黒い悪魔の姿を目にした村人は身震いしました。
山の稜線に沿って電波探知器や対空砲が設置され、辺りの空の不気味に警戒してました。
阿佐道の峠に差し掛かると、辺りに異様な匂いがただよい、みんな鼻をつまみました。
日本兵の死体が累々と林や藪に重なっているのです。
木のまたに寄りかったり、枝に挟まれ「く」の字になって無残な姿で死んでいるのもいます。
這い上がろうともがいたであろう、木の根を握ったまま息絶えた兵もいます。
中には水欲しさにはってきたのか、数名の兵が小さな溝に顔を突っ込んだままの無残な姿をみせてます。
そして、細い流れがその口あたりを洗っています。
目を向ける所はどこも死体が転がっている墓場でした。そこは、日米両軍の最後の激戦地の跡だったのです。
その阿佐道を行き交う米軍の車両が、移動していく住民に土ぼこりを吹きかけて行きます。
そして、車上の兵隊たちが意味のわからない奇声を発していました。
完
宮城恒彦著「投降する者は」より
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