2015年12月30日水曜日

誇りと尊厳か

2015年12月26日琉球新報
翁長知事「県民の誇り、尊厳を守る」すごい見出しだ。
実態や本心はどうであれ、言葉は言霊であり、表に吐き出した以上、消えることはない。
批評の枠を飛び越え、批判の届かないところへ行ってしまう。自治問題から民族問題へと引き上げる効果となり得るか?
下地島国際空港提案、三菱地所民間の提案だが、そのように捉える人はいない。
久辺3区への交付金にはじまり、沖縄県という県庁を通した枠組みを飛び越えて、地域単位での揺さぶり予算付き分断施策が沖縄のブランドとなるのか。
2人の知事、ふたつの県庁。直接統治へ琉球民政府体制へと時代の輪廻かな。
護国神社の成り立ちを知らないで初詣のお参りをする人が多いね。
沖縄とか琉球とかアイデンティティとか言うわりに波上宮、普天間宮などの琉球八社に行かずに靖国みたいな神社に初詣のお参りしている。
それに気づいてから護国神社には行ってない♬
ま、いいか。

対談記事

http://www.koubunken.co.jp/smp/news/n13749.html

これは残して置こう。
今の世の中のテーマを含む話かもね。安倍晋三の言う「戦後レジュームからの脱却」を超えた
本来の考えるべき問いである「明治維新、明治以前と以後の日本という深いテーマ」
日本人の尺度にはない、朝鮮、沖縄ならではの尺度であり、今、行われている野党共闘の取り組みで「参議院選挙勉強会」の中、開催全国各地の中で見え隠れする明治以前の地域価値観と絆、共有部分を占める感覚に近い。
対談の中で行われている問いに気づき、忘れられた明治以前のあり方と明治維新以後の総括、いわゆる国体維持の本体に迫る事になると思う。
多くの日本人が戦後という区切りに惑わされて、戦争総括についての期間を日露戦争なり第一次世界大戦後から考えさせられていて、なお戦争総括をやらないか。
明治維新まで遡る可能性がでてくるからではないか。
日本の夜明け文明開化と言われる明治維新、士農工商身分制度、封建制度の解体ではなく王政復古が実態、敗戦でも変わらず民主化されたと言われるが実態は明治憲法下、改正による現日本国憲法でしかない。
戦後に新しく憲法が作られた訳ではない。新しい憲法下での国家でもない。明治憲法の連続性の中の国のまま。その法体系を引き継いでいる。
先の裁判、夫婦別姓や女性の再婚禁止期間など戦前、明治からの法律のままである。

2015年12月29日火曜日

クリスマス

2015年12月25日琉球新報
メリークリスマス♬

貧困でもなく不幸せでもなく幸せの実感もない。只々、生きている多くの国民を象徴するようなクリスマスおめでとう〜。
しかし、人生でクリスマスで浮かれた経験がない。シアワセを実感、認識経験がない。
そのような目線で来年度予算を見ている。
外交文書公開と予算で紙面も増量し、今日は二部に分けて記事アップ。
それにしても「県内首長 増額を歓迎」の小見出しには、ため息。
割り振られる予算を「恵み」とでも、アリガタヤアリガタヤ。
このような感覚で、マトモな予算執行、使われ方がされる訳がない。
一括交付金減額とあるが微減、概算要求作成側の政策能力の無さが形に出ただけで意図的に減ったものではないだろう。
久辺3区への交付金は言うに及ばず、「全県wifi整備へ」一括交付金3500万円を使って整備するなんて、なんて恥ずかしい話だ。沖縄の特殊事情の解消と言えるのか?
一括交付金の枠に収められたのか?収めたのか?
舐められたのか?怠慢か。
予算意識から、完全隷属化へ無意識に洗脳統治が見えない所で進んでいる。
2人の知事といい、沖縄増額表示形式の沖縄振興予算など、予算増額ありがとうとしか職務職責を果たせず、それ以上もそれ以下も想像力を超えた話になるのだろうな。
現実的思考ってヤツ、増額ありがとうコソ現実な姿でしかない。

貧困

2015年12月24日
伊平屋空港について、二題ある。記者席の浦崎副知事と三面下方に小さく島尻大臣記事、バランス?

那覇市議会の委員会会議録公開、沖縄市町村では初めてになる。拡散だな。大きな議会では委員会での内容がすべて、公の議論が広く公開されていない事がまかり通る。自由な議論が阻害されるなどの理由にならない。
非公開のなんの制約のない公の議論に予算を使うのが間違い。

貧困が紙面から溢れるくらいにいっぱい。どれだけ実感として受け止められるのだろう。
手応えがないから、言葉が溢れるのか。
貧困とか格差が社会問題としてクローズアップされ報道に取り上げられる。どこが海外の貧困と区別が付くのだろう。遠い国の話との受け止めてはいない?そのような報道ではないかな。身近な自分の事を言っている事に気付くのだろうか?
貧困、格差の中に自分は含まれているのか?という疑問が湧くのだろうか。比較対象がなく漠然としてはいないか。7割に校納金が払えず、昼食貧困が3割。当事者は実感があるのだろうか。
貧困、格差という捉え方が行く先を不透明にし、出口をなくしている。
弱者、経済弱者、能力弱者など限定的な人たちへ社会的救済のイメージではないか。受取手の目線も上から目線になり、自分の事とは捉えない。
言葉は似た意味を持つが貧困格差と貧富とは違うと思う。
貧富の差によって社会全体に貧困格差社会に向かっているのであって、これだけ広がれば貧困では片付けられる筈はない。
貧困問題ではなく貧富の差によって格差的に貧困が広まっている。しかし、貧困を自覚するまでに至るには中々ならない。7割と3割の中にどれだけ貧困を実感している人がいるのか。
貧困は問題としてではなく社会として向かう道筋としての現象であり、経済格差が学力格差という国民尺度と社会が向かう尺度とのギャップを考えれば、国際基準ではそれは貧困ではなくなる。
貧富の問題として捉えない限り日本の貧困は全体問題にはならない。日本社会は恣意的に貧困社会を目指している目指さなければ成り立たなくなっている。
大学進学率がバカ高く、当たり前になり教育の質の低下、義務教育高校を含む教育の社会性がなく、進学率の高さが学力低下と貧困の一因ともなっていることに触れない。

2015年12月28日月曜日

思い込み

2015年12月23日
沖縄をはじめ全国各地で様々なイベント、講演会が開かれている。Facebookのタイムラインに流れている「山城ヒロジ氏の講演会」模様、ビデオ録画が目に止まりかいつまんで見た。
そこにオール沖縄について語られている。その中の装飾部分を省き事実だけを残すと建白書しか残らない。
建白書の中身を注意深く見てはいない。私だけだろうか。
オール沖縄は建白書の制約の中の運動体であり、政治活動になる。
そのため矛盾も出てくる。そのことを山城氏も分かっていて説明している。オール沖縄ではなくオール辺野古だと。
オール沖縄ならば、与那国島、宮古島、高江、基地汚染など諸々を含まなければならない。しかし、建白書の中味に含まれていない。
だから、本質はオール辺野古だと言っている。
その枠組みでの運動になり、選挙体制にしかならない。
唯一、高江に関して翁長知事がそれを踏み越えて発言していると。
多くの沖縄の人がそれを認識しているだろうか?
建白書を盾に線引きをすることに疑問を持つ人もいるだろうがキチッと足切りをしている。足切りをしないと成り立たない建白書となる。
よく批判される辺野古埋め立ては反対して、泡瀬や那覇空港、浦添は認めているのは矛盾しているとの批判だが建白書で成り立つオール沖縄では枠を超えた話となる。
別の枠組みを模索しなければならなくなる。
オールマイティーな組織ではないということを沖縄の人が納得しているのかとの問いには建白書を見ているのかの問いですべて返せる事になる。
宜野湾市長選挙、すべて推測だが、オール沖縄候補者陣営の水面下のモタつきに見えたのは、建白書にない事項の話し合いがしっくり行かなかったのではないか?一部、共産なり安保法廃止、改憲なり、与那国島宮古島自衛隊ハイビスカスなり建白書を超えた新たな事項の取扱いが不調になり、それが閉鎖的に見えたかもしれない。宜野湾市長選挙の枠組みに関わる内容だろうな。
今一度、シムラ恵一郎氏やひやみかち宜野湾うまんちゅの会のチラシを読み直す事も必要になる。

正月で帰った?

2015年12月22日琉球新報
低周波騒音、コザ暴動、韓国の請求権協定裁判、その他を削っても16カットにもなる。一年も続けて、一向に精度が上がらない。一重に視点が定まっていない証拠だろう。
一面、沖縄予算3350億円よりも警視庁機動隊一時帰任の記事を一面トップに持ってくる攻撃性は、いくら琉球新報でもやらないか♬
オール沖縄、翁長知事を誕生させ1年間、辺野古を争点にやり続け、体感的な圧力として具体的に首に巻きついたロープが一時的にしろ外された。分かりやすい現象だ。
沖縄基地闘争の現場であり、そこでしか具体的な阻止行動は行われていない。しかし、沖縄基地問題の大元は東京であり、辺野古はロープの先っちょでしかない。
政治的には口先だけで法的手続き以外は具体的な手段がなく、それも国から独立してない司法へ預けて待っている。
仮に負け前提なら、負け方が当然にある。
完全敗北でぺんぺん草も生えてないでは沖縄の負け方になるのだろうか。
足元を見ないで先を見れば、中央の政治、政局、選挙見通しなど真逆の流れである。
唯一、沖縄だけという蜘蛛の糸のようにすがって登り詰めても天国も地獄もまったく同じものであったとなるのであろうか?
那覇市の話題が二つ。
議会、指定管理者選定における委員会否決か。
指定管理者候補が2事業者、関係疑惑の委員が2人。字面ではわからない不明確な部分に釈明ができていないのだろう。
そもそも、公正な選定など意味するもの、ほぼ恣意的な意向など排除できない。
商店街の取り組みか、本質的に地域から湧き出たものか?予算ありきか?常に疑わしい。商いの活性化より不動産価値を税金で上げるだけになるのか動機の共有が本物かどうか。
那覇市まちなか振興課が仕掛け「トータルプラン作成支援事業」なるニーズの作り出しで浮足立たせるのでは、ツルツルの肌感覚のキレイで人間味のないデジタル思考にはまっていく。
行政が関わり予算が付く事業形式のまちづくりなり商店街づくりなりは、予算目的にあった、もしくは予算目的にはめようとする力学が強く働く、予算のかかる話がメインになり集客なり、合わせて行われる投資による金利利息により、儲け話が見え隠れ、絵に描いた餅を見せられ、ウチ外ともに魅力を履き違える。
商店街を構成する人たちが住み続けることを前提にすれば、それぞれのライフスタイルが先ず前面に出てこなければ、本来の魅力があり人を寄せ付ける計画にはならない。
そこに予算はつけにくいとなる。
商店街が再開発したが、ほとんどが出て行くか賃貸として人格ない通りになっていく。どこも一緒で田舎でも同じ。いつの間にか顔が他所の地域の顔になっている。それて沖縄の魅力を語る

2015年12月24日木曜日

評価はマチマチ

乙武洋匡氏の評価はマチマチだ。リベラル層には人気なのか?
大阪W選挙の時に、あれっと乙武なる人物が目に付いた。遅いか♬
Twitterで橋下徹と対談をやっていた。選挙戦たけなわの中、一番目立つ時に延々と続けていた。
その行為を成せるモチベーションは何処から来るのか?疑問を持たざるを得ない人物だろう。
計算高い野心家で権力欲が強いからこそ、権力に近づき媚を売るような行為もためらいもなくできるのだろう。
立派な事を平然と言いのける動機に邪念しか感じないな。
来年の参議院選挙に出馬するようだ。さて何処から出るのか計算高い彼が選ぶのは権力から遠いリベラル政党からは出ることはない。
自民党では大きいゆえに埋没し不自由だ。
残るは次世代かおおさか維新になる。長く国会議員をやる気がなく早く代表、もしくは近くになるには次世代が手頃になるのか?それとも思考の類似性から橋下徹へなびくのか?
見ものだ。39歳、二期やれば51歳か。10年も煩わしい話を聞かないといけないのか♬

2015年12月23日水曜日

参加する民意、しない民意が

今日は新聞が休み。
1年前の知事選のオール沖縄翁長雄志知事誕生に感じた不安は未だ消えた訳ではない。
沖縄革新勢力の緩やかな後退、革新統一の枠組みの結束が緩くなる、解体につながるのではないかという懸念があった。
その懸念が払拭されたかというと未だ結論は出せない。
しかし、政治力として翁長知事の影響力が増す一方で旧来の革新側の発言力は落ちているだろう。
ゲリラ的な普天間基地包囲閉鎖行動以前と辺野古移設埋め立て抗議行動には運動の多少の分断があるのか?
抗議行動の違いを感じている。
違いは抗議行動ではなく私なのかとも考えたりもする。
空気感が違うかな。空気感は集まった人たちが作り出す。
沖縄観光の良さに沖縄の人のホスピタリティが挙げられる。
それが感じられない♬
宜野湾市長選の選対事務所でも同じだ。唯一、新風会ひやみかちの会事務所には残っていた。
原因は動員力の明らかな低下だろう。
旧革新統一側の政治力が落ちてオール沖縄の茂みに翁長知事の影に隠れて楽を決め込んでいるのでないか。オール沖縄内での闘いのサボタージュ状態かもしれない。
落ちた動員を補う結果としてオール沖縄翁長雄志知事の発信力に期待し集う内地リベラル勢力に頼わざるを得ない。
バランスの問題もあるが支援に来た彼らに対して迎える側のホスピタリティが充分に発揮されることが、彼らが無意義に沖縄に求める闘争の姿に少しながら傾斜したパフォーマンスとなり、空気感かもしれないな。
普天間基地包囲閉鎖行動の時とは真逆な印象を辺野古移設埋め立て抗議行動に見る自分に違和感を覚えている。
抗議行動が自ら湧き出したものなのか求められた行動なのかと不謹慎にも正直な話だろう。
なぜ、普天間の時に同じ激しさができずに辺野古ではできているのか。決して状況の厳しさだけではないだろう。
時代と共にやり方も変わる、そうだろうか?
沖縄の基地闘争が全国規模になったとも言えるし、内地の政治闘争の舞台に置き換わったとも言える。
嵐が去ったあとがどうなるのだろう。
数年はキバを抜かれた時間が続くのだろうか。

沖縄振興予算と高らかに朝早くからNHKが伝えていた。
この予算の名称ほど実態をバカにしたネーミングはない。
県民を含め多く国民の錯覚を誘い、その誤解の上に話をしないといけない責務を放置していてはマトモな会話は成り立たない。
せめて、沖縄総額一括予算くらいにしなきゃ。ダメだろう。
普天間基地包囲閉鎖行動時の怒りと高揚感は辺野古では起きなかった。
到着するまでと到着してから、そして回を重ねるごとに冷めていくのか?
反比例するように山城ヒロジ氏やフミコおばぁの話を持ち出し血走った目で勇しく違う訛りで1人でも多く人が来れば止められると語る、それを聞いた県民は何を感じるだろう。
先日、辺野古ゲート前で朝の行動がひと段落した頃、まばらな新ゲートで1人が突飛に拘束された。
その状況を周りは把握できずにいた。新ゲートにいた拘束されるのを目撃したオッサンが周りをなじった。
お前ら、何をしている。ナゼ助けないんだと、黙って見ているのだと新ゲート前から道を跨いだ反対側にいた人たちを批難した。
一生懸命さは分かる、頑張っているアピールも分かる。本来はアピールではなく同意を求めている。それが強制に見えた時、同じだなと感じる人はいるだろう。
根底のなんのためにを再定義させてしまう。
なぜ、沖縄の人は行かないのか燃えないのか問われているようだ。
文化と軍統治下歴史の違い、沖縄の闘争の勝負どころなり、瞬間的なタイミングなのだろうか。
力での全力闘争を長く行うことを是としない統治下の知恵なのかもしれないな。
それに苛立つ異文化という溝はあるかもしれない

2015年12月22日火曜日

ギャップ

辺野古反対の現場と注視している県民とのギャップが気になるな。批判ではなく、明らかに大きなギャップがある。今の状態は政権のコントロールの中なのか?
さらに過激になることもなく、ソフトになることもない。
毎日の現場が大変な事は分かるが感情的な現場報告はギャップを広げるような気がする。その場で昇華され現場へとは繋がりにくいようなリアル感の喪失になりかねない。
ハードルを乗り越えた人は、ハードルを乗り越える前を忘れてしまうかのように、あちら側とこちら側を作り出す。
ほとんどの県民が現場に行きごぼう抜きの経験がない。経験しなければ、絶対に分からない話だからだ。それだから頭で考えようとする。頭で考えて分かるものではない当事者にしかわからないものだ。その無力感、連帯の大切さが、それ故、感情的になる。いい循環とは?求める動員結果にならない。伝える難しさと運動の難しさだな。

ジンクス

琉球新報2015年12月20日
ジンクスは勝手なこじつけだが民主党政権交代選挙から私が応援する候補者は選挙に負ける♬
正しく言い換えれば、情勢が厳しい、ほぼ負けるであろう選挙は、黙って見ていられない。
必要以上に応援してしまう。
ここで、では宜野湾市長選挙はどうだろう?
分からない。厳しいが負ける選挙とも言えず、ジンクス的に縁担ぎで傍観が最大の応援だったりしてね♬
琉球新報は宜野湾市長選挙予定候補者による座談会を取り上げ選挙戦を盛り上げようと努力している。
市長選挙での一面は名護市長選挙?くらいかな。合わせて二面、三面特集だ。年内は最後か?今日はシムラ陣営統一行動日、タイミングもよく、年末年始の向けう正面を抜けて先に顔を見せるのはどちらの候補者になっているだろう。
安倍総理大臣の必勝号令など恐ろしく、佐喜真が顔ひとつ優勢か?シムラ陣営が弱気になって辺野古色を薄めれば、勝負は意外と危ういかも、終盤にはいずれ辺野古になる。その前にソフト部門の浸透がないといけない。
やはり、佐世保市議会決議が記事になった。いっそ佐世保市が海兵隊を堂々と誘致すれば世の中スッキリ?政権側には不都合だろうな。
左右の原理主義にはウンザリだな。自らが原理主義とは気づいていない不幸。市民側の野党共闘の機運は盛り上がっているようだが、それに対して野党政党側の不透明感が対比的に浮かび上がり、有権者の野党へ失望感ではなく、野党政党への冷ややかさに似た評価が定着して行きそう。
反動なのか、なんとも自公、おおさか維新への期待値が上がっていそう。報道はそのような風景だ。共産党がどこまで票を伸ばすのかが注目点にしかならない。
年明け野党の協力の機運は進むだろうが、すべてが参議院選後を睨んだ事になりそう。
宜野湾市長選挙は勝つことの影響より負けた時の影響が大きいから、想定は負けを前提にするのは当然となる。

2015年12月21日月曜日

すべてが選挙対策か

琉球新報2015年12月17日
予想していた通りにコンビニに立てられた新聞はいつもより厚く4ページほど多くなっていた。
一面から重厚な紙面、全体的に読み応えがありそうな今日の新聞、一番気を引く「夫婦別姓」は思いっきり省く、外事、論壇、生活保護、地域、社会面も省いて15カットだ。
一面から五面まで、特に一、二、三面は教養として押さえたい。

選挙を背景にした新聞とネット、特にFacebookの作り出す風景について考えてしまう。
発表報道や政治的飛ばし記事とFacebookのタイムライン、この二つが作り出す風景はあると思う。
宜野湾市長選挙における固定支持層の割合は過去の結果から革新側が多いと考えられる。
しかし、先の市長選では千票足らずで負け、知事選では僅かながらオール沖縄側が勝っている。
勝敗を分ける固定した支持を持たない人たち、浮動票と言われる人たちに見える風景はどうのようになっているのだろう。
新聞に載る発表報道、特に政府が行う発表報道と政権側が行う飛ばし記事は、一見、シンプルで解説がなければ、字面がそのまま風景として意識の中に取り込まれる。
決定事項のように勘違いを意図したものが多い。
また、深く考える作業も日常ではあまりない。
特に今の時期、多くの要素が重なり効果的とも言える。
来年度予算案策定作業中であり、参院選対策もあり、宜野湾市長選挙前でもあり、選挙における政策との相乗効果も確実にある。
島尻安伊子の発言も立場が違えば受け取り方も違う。良し悪しではなく選択を迫った提示だ。
昨日の二面にあった小さな記事「子ども貧困対策自民県連チーム」など、刷り込みが盛んだ。
12月に入り毎日、政権の刷り込み記事が紙面を飾っている。
島尻安伊子の顔入り記事が一面、二面にほぼ連日載ってない?
行政を握ると毎日、選挙広報が可能だ。

2015年12月19日土曜日

ネガキャンか〜

琉球新報2015年12月16日
批判、ネガキャンなど、それを行う動機と目的はそれぞれにあるだろう。
批判やネガキャンによる表現は
動機や目的に添った効果は得られているだろうか?
象徴的なものが「安倍死ね」「安倍を許すな」である。
おおさか維新の橋下批判も同類で批判やネガキャンの激しさの割に効果が得られたどころか激しさと比例し孤立し分断を生み出している。
共通するのは個人批判である。人格批判は共通認識を持つ一部の人たちには心地良いもので活動の疲れを癒しストレス発散になり、そして強い絆になる。
批判は広く拡がり世論の線引きを明確にする効果となるが一般の共感を引き寄せることは稀で関わらない動機に結びつき、批判相手の良さを見つける作業へと、民衆独特のバランス感覚が反動のように作用することも考えられる。
安倍自民党への支持率やおおさか維新の根強い人気など期待とは反対の現象として見ることもできやしないか。
表現のあり方や批判やネガキャンによっては、そもそもの批判の元を消し去る効果、遠ざける動機になってしまう事も考えられる。いわゆる人格論へ導かれ好きか嫌いか?単純シンプルな思考への手助けになり、政治のあり方や進む方向性の問題より
尺度のない人物論、人治主義へと選択肢を狭めている気がしてしまう。

2015年12月18日金曜日

議会が会期中か

琉球新報2015年12月15日
政党新聞みたいな一面♫
反動なのか社会面左肩の定番スペースから反基地反政権記事が消えた。
辺野古の移設工事の政権の年内目標は護岸工事の為の海中捨て石投入か?
辺野古ゲート前抗議行動への対処は、これまでと変わらず機動隊による排除だけだろうか?変化があるのか。きになるところだな。
記者席記事の県議会議員新垣安弘氏の近況、こちらも舐められた記事の書かれ方だな。県議会におけるポジションの現れか?
来年度予算案前の政権自民党のアピール記事が満載、仕方ない話ではある。これも飛ばしであろうと伝えないといけない。
それにしても、1文字1文字が票に見えてくる。強烈なアピールだ。
安保法廃止と改憲阻止で野党の協力がすすむだろうが、この流れでは裏争点となり、表、紙面や報道の話題は自民党の掲げる政策が賑わうだろう。
具体的な安保法による変化が実感されず、やるかやらないか不透明な憲法改正が差し迫る現実というより蜃気楼と捉えられ、軽減税率やら本体の消費税なり、介護福祉医療や賃上げ労働環境などの身近な話題の飛ばし政策でマスコミ、評論家へ生活の糧を与えられ、新聞紙面構成まで想像が出来そうな位、種まきに勤しんでいる。
久しぶりに那覇市議会の記事。代表質問か。
12月の議会が各市町村議会で開催されている。来年度に向けて大事な時期、各市町村役所内では来年度予算案編成作業にも取り掛かり始めており、この時期をおいて要請活動が機能する可能性がある、限られた期間だ。本来なら11月中に各議員は地域懇談会等を開いて地域ニーズの掘り起こしを行い12月議会に活かさなくては、具体的な予算には活かされていかない。また、一年遅れの旬を過ぎた取り組みになる。通年を通して取り組みを追いかけるにしても12月から始めないと指摘するにも来年度予算案審議を挟んで行く日程、戦術の方が効果的になる。
よくあるのが新年度明けた4.5月頃行われる行政主催の説明会、ほとんど一方的にならざるえない。地域や住民要望など行政日程的には周回遅れになり、既に大枠の予算は決まってしまっている。役所は安心して話を聞き流す余裕が出てくる。12月や年明け1月頃には共に忘れている。

2015年12月17日木曜日

ゴミは揉めるね

琉球新報2015年12月14日
朝早くから母の定期検診で病院に来たため、琉球新報と沖縄タイムスを見比べることができた。
久しぶりに見るタイムスの紙面は新鮮に感じる。
沖縄の二紙、紙面から感じる力の入れようが交互に代わる。サイクルがある。
今日は一面が違うね。
来年の沖縄予算に関わる対比が浮き彫りだな。
新報、減額圧力政府「自民調査会知事入れず」
タイムス、島尻安伊子「振興予算勝ち取る」

宮古島市のゴミ撤去監査請求、監査委員会却下、行政訴訟へ。
監査請求をした住民側も想定内の結果だろう。提訴もとあるが行政訴訟の準備がないと監査請求もやらない。
数日前の紙面にあった特集記事を読み直して経緯を確認して、住民監査請求を知識として抑えることは無駄ではない。
キバを研ぐような準備があれば役場交渉の背景も違う。
情報公開請求が前提の作業になるのだが。しかし、ハードルはお金だね。
闇雲に数千枚も情報公開請求をやると、一枚30円もコピー代を請求される。
やはり、ここでも人間関係、日頃からのコミュニケーションは大事だ。請求ポイントなり減額なり、良心を引き出さなきゃ。
頑張って一度に請求しないことも大事。
監査委員会の委員、自治体の規模により委員数も違う。首長推薦と議会推薦、共に議会同意人事。
基本的に却下される事を前提だろう。しかし、却下になれば行政訴訟となるから、駆け引きもある。騒ぎが大きくなれば、議会も100条委員会設置まで行く場合もある。いずれにしろ財政が絡むのが条件。
監査委員会も議会も基本、めんどくさがる♫
見ざる聞かざる言わざるが多数派たる所以。狭い世間の行政及び議会、市民社会とは違う小さな世論がある。
成否のカギはマスコミか♫ 情けない話だな。

されど議員

琉球新報2015年12月13日
沖縄県議会与党の本会議質問で与えられた17分という時間を使い切らず、意図的に時短行為で議事進行を図り、議会外活動日程を優先した県政与党の判断を問題視し物議が起こっている。
今回、明らさまに分かりやすい形で議会実態が露呈した形になった。しかし、日々、日常の議会議員の活動の延長線上にある一事象でしかない。
政治家と言っても、幾つかの形態に分けられる。
選挙で当選し身分と生活保障がある者と選挙に落選または関わらず身分と生活保障が保障もなく活動している者、これも選挙を前提としている事が一般的に政治家となるのか。
選挙に当選した政治家も行政職の長となる首長、首相、大臣も含めてのグループと国、地方の議員と分けられる。
政治家活動も公務と政務と分けて活動する。
当然、選挙で当選し身分と生活保障がある政治家は公務が優先であり、選択の余地はない。
組織的な活動であろうと今回は公務を蔑ろにし政務という個人的活動を優先した形になる。
批判されても仕方がないレベルである。
では、ナゼとなる。
議員の議会活動と議会外活動の違い、議員の身分と生活保障及び認められた活動費は議会活動に対して支払い保障されている。政務活動に対してではない。この線引きは曖昧な部分も多く、その上に胡座を掻いて不透明さが不信に繫がる。
議会活動、議会予算を使って視察研修、認められた勉強会や調査など形はどうあれ報告書なりレポート提出が義務付けられても不思議はない。
委員会なら委員会報告となる。それがどのような形で表に出るか。出されたとしても一般の市民の目に止まるかは別問題で良識ある議員は、その情報、公式情報を個人的に拡散する。
合わせて個人的な見解などで補足はできる。
委員会質疑が公開非公開という場合も時としてある。その対応がめんどい。
議会は表向き合意形成の場であり、その為の議論質疑となる。この前提を使いサボタージュする人もいる。
そもそも、議員活動評価と投票行動は中々比例しない。議会外活動、政務及び地域、地縁血縁がほぼ投票行動に結びつくのが現実。
議員活動は国会議員であろうが地方議員であろうが活動、やる事の仕事量は変わらない。
活動環境の差は雲泥の差がある。
恵まれた環境にありながら、それでも充分な活動がほとんどできていない。
活動をフォローするシンクタンクがない。活動資金はほとんど政務活動選挙活動に使われる。
有権者が求める過大な期待値とのギャップを埋め切れるはずもなく、議員活動による政策活動や議会活動の評価は得にくく、本筋から外れた活動で政治家評価をあげようとする。
議員活動への期待値と活動資金とのギャップを見ようとする市民は皆無なのが政治にリアリティがなくなる一番の原因でしかない。
安物買いの銭失いが市民の政治感覚ではマトモな議員は育たない。
お金を使う力がないと、支出の額は活動のバロメーター。歳費は活動費でなく生活給であり、議員のお金ばかりをやり玉に挙げて必要以上に問題のすり替え批判しても市民が貰えるはずの果実、市民利益になることはない。税理士も事務員も公費で付ける位の民意がなければ議会は宝の持ち腐れでしかない。
議員の後援会組織は選挙活動しか機能しないのも変な話である。
当選させた責任は有権者にも背負うべき責務。
議員の議会活動のフォロー、議会事務などの機能をしている後援会など見た事ない。
議員だよりなど、ボランティアで後援会がやればいい。議員意思と後援会意思半分で議員活動の脚本を作れば理想だろう。
選挙で応援するという事は本来そういうものだろう。
政務活動費問題などナンセンスな問題で、議員個人的なカネでもないのにお金の使い方を知らない議員がやるのがオカシイ。それはイコール、議員活動のやり方が分からない議員が多いという事でしかない。
ストレートに議員能力の問題。人に任せるのも能力。活動資金が足りなければ集めるのも能力。
堂々とカンパを募ればいい。政治資金団体を作るぐらいでないと本気とは言えない。
現実はそこまで地域住民は地方議員に求めていないし、そこまで考えている議員もいない。
程々が一番と割り切りつつ、風向き次第でキバを向き感情のはけ口として批判を遊ぶ。
3.11後の市民団体による大阪の議員への面談聞き取りの取り組みが行われた。その時、自民党保守の中で唯一、二重丸◎の評価が付いたのが前日、大阪市長選挙で落選した柳本あきら氏だった。
リベラル側からすれば自民党というアレルギーを持ってしまうが、その市民団体が二重丸、でもストレートに投票行動に比例はしない。相手がおおさか維新の悪名高き吉本でも民意には反映されない。市長選挙という違いはあるがせめて議員選挙では議員評価は反映されて欲しいものだ。
最近は増えてきたが議会における議員の議案に対する採決情報。それでも小さく見づらい。一面使ってもいいくらいだ。
座間味村は明文化できず、申し合わせ事項になったが未だに実現せず、それどころが議会だより、役場広報すら消滅してしまっている。
通年議会、通年会期すら決定事項なのに、すべてが知らないそぶり。
そもそも、議会議員定数が10名を切るようなら自治体として存在する意味もない。公の議論が成立しているとは考えらるない。
議員批判が議員手当批判から定数批判になり、結果、議会力低下になり、自治体存在そのものを否定に繫がる。

2015年12月16日水曜日

痴呆という先入観?

ふ先日?昨日かな龍潭池に車が落ちた。
20代の女性の運転する軽自動車、ニュース映像には🔰。運転操作のミス、アクセルとブレーキの踏み違えらしい。
同じ日に内地でも運転操作のミスの事故、これもアクセルとブレーキの踏み違え。
頻繁に同様な事故報道が流れ、何気なく当たり前のように気に留めず、また、年寄りか高齢者、痴呆症などと合わせて報道を受け取る側も報道する側も警察でさえ、納得し危ない人たちとして自粛の必要性を感じて終わり、被せるように自動運転自動車へ夢を見る。その社会的利益が盛んに報道される。
しかし、本当に運転操作のミスだけなのか?と疑問を持つ人は少ない。
コーラと思ってコーヒーを勘違いして飲んだ時、ほとんど意味が分からない。コーヒーだと認識するのに0.数秒かかってコーヒーを認識するが最初は変な感じしかない。
運転操作のミスやらベダルの踏み違えはあったとしても、ナゼ、そのような状態になったか?が深く問われない。
確かに単純なミスもある。しかし、パニクる場合は理由や状況がある。
先日、ダイハツがミッションレバーの不具合によるリコールを発表し無償交換の記事が出た。
オートマチック車のミッションレバーの不具合とはパーキングに入れても上手く入らずRバックに入り下車後、車が流れてしまう。この症例が報告されリコールになった。
これと直接的に結びつける証拠はない。
しかし、日本の技術の絶対的信頼性は神話でしか今はない。
運転者においても誤操作した、もしくはしたのだろうと自覚は現実的な状況から認めざるを得ない。ナゼそうなったか考えることもなく、完全に機械に意味のない信頼をおいているため、誤作動するなど思いつかない。
技術大国日本の技術の信頼性は過去の物として意識に置かないといけない。
あまりにも近年多すぎる運転操作のミスによる事故に不自然さを持つのは不自然ではない。

モラルね

モラルハザードの社会、砂上の上の社会か、社会の根底になる信用信頼、いわゆる与信と受信行為が成り立たなくなる。
一万円が一万円ではなくなる。
1000兆円の借金と1500兆円の金融資産の日本だが社会インフラや建物不動産価値がなくなれば、すべてが崩れる。
日本社会で各分野でどれだけのモラルハザードが起きているのか?
その実態も分からないままの状態は、もはや信用バブルの破裂しかねない社会かもしれないな。
検査チェックが機能せず、金の受給関係による主従関係が当たり前になり、検査であろうと依頼主利益に添うという価値観が行き過ぎた民営化の行き着いた信用信頼不安社会となったのか。
世紀を超えた辺りから、業種業界を超えモラルハザードが原因の問題が発生しツギハギで手当てをし本質的な対策を取らず、再開発事業なりで建て替えしながらやり繰りしているが7割がたが欠陥であれば、いずれ間に合わなくなる。
金融バブルで公的資金を打ち込みウヤムヤにしたような事ができなくなれば崩壊する。
土木建築に関わらず、企業会計においても同様になる。しかし、社会インフラを含め土木建築の信用崩壊は日本社会の崩壊を意味する。それにより金融が崩壊し貨幣や株は紙切れになる。
社会インフラ危機が言われて十数年、ここで爆発的に施工信用が失われれば大変な事になる。
経済成長最優先の意味もなくなる。綻びを塞ぎ続けるにはGDPを上げるしかない。
まだ、戦争や破滅的な災害での社会破壊の方が手当てがし易いだろう。
中国を笑える国ではない。民営化などコストカット社会の弊害が長く続き過ぎだ。
STAP細胞はありますは笑える話ではない。
そのような社会の問題がニュースで流れすぎている。
阪神淡路大震災以降進められている橋脚の耐震補強工事の補強部品の検査チェックの癒着不正で7割の部品が欠陥、意図的にコストカットの為の手抜き。5年間で500箇所、工事のやり直し。
横浜の杭打ち問題も局所的な問題にしているが根は深い。以前のアネハ事件のウヤムヤ解決など地震で壊れるのを待っているようだ。
熊本の化血研、東芝、JRと事欠かない。国ですら怪しいものだ。
予算が予算目的より、経済的要素でしか価値を求められ政府がそれにしか答えていない。
税制遊びと利権だらけでは本来の予算目的は達成できず綻びばかりで軋みが亀裂になり崩れていくのは時間の問題か。
経済政策なのか福祉政策なのか、防災、エネルギー、環境、教育なのか?予算はその目的達成の為に計上支出される。
しかし、資金が回る事がメインになり、そこから霞取るように利潤を無理やり作り出す事が当然になっている。予算目的達成より受け皿業界の利権としてピンハネ。最たるものが介護福祉士給与アップの為の予算も企業に吸い取られ現場にはほぼ行かない。ほぼすべてが補助金で作られ持ち出しなしが当然の福祉事業の実態。泣くのは無認可の小さな真面目な事業所であり、働く人たちでしかない。
高額医療費の問題も保険業界の為、完全な格差社会になる。企業の内部留保が何百兆円にもなる国が病院にも行けない人が普通になる。しかし、原発事故による放射能被害による国家的影響対策として世代交代を早め希釈して行くしかないのなら生物的知恵として個人の寿命を短くしネズミのようなライフサイクルで黙って死んでいくしかない。
国民主権ではなく国家主権という思想では国民は資源でしかない。

2015年12月15日火曜日

ディズニー?

琉球新報2015年12月10日
長い時間をかけて、行われた自公による公明党軽減税率キャンペーンがやっと終わった。
こんなに手の込んだキャンペーンをやるのか?報道を借り切ったような公明党支援の政治活動だ。来年参議院選挙の公明党擁立選挙区の重要性を自民党も認め期間限定の支援キャンペーンだろう。年末年始にかけ公明党の参院選への取り組みが本格化するのだろう。
この間、軽減税率報道で埋めた裏で影響を受けた話題は何だろう?とも考えてしまう。
維新の会のゴタゴタ、大阪W選挙、維新の党代表選、維新の党党民主党統一会派など、国民の政治への関心を失わせるような政局報道と合わせて、自公による軽減税率決着報道も安保法国会での国民の関心の盛り上がりへのクールダウンにはいいかも?コントロール可能な参議院選挙での投票率風景作りをやる事は安定した支持投票行動者を持つ、自民党、公明党、おおさか維新には好都合だな。
宜野湾市長選挙のシムラ総決起集会は3000人を集めて盛況に終わったがホンモノかどうかは今日からの活動に掛かってくる。一時的な動員は可能だが継続的な選挙運動に結びつけることになるかが課題だ。
リベラル支持票は天井で勝つための上積みは中間、保守票しかなく、投票行動が辺野古反対や沖縄問題に置かない一定層が選挙の勝敗に影響を与えるのは確実であり、そこへのアプローチは人的関係しかない。
それにしても、ディズニーはやり過ぎだが、それでも票が取れれば儲けもの何でもありの勢い、佐喜真陣営は飛ばし過ぎて息切れするのではないか?
焦らずジックリ、コツコツ多方面からの声かけが終盤に活きてくるような活動が大事。

紙面風景

毎日、新聞を広げ、さっと流し見していると紙面感情?みたいな波長を勝手に増幅器で増幅して受け取ってしまうのだろうか?
一面トップがシンポジウム記事、見出しが第二の捨て石となる。
社説二つが政権への関節批判、一つあるのは日々の事だが二つともか。
三面トップもシンポジウム記事。
定期的に復帰運動時の回顧記事はある。夏は瀬長亀次郎がキャンペーンのようにシリーズ記事が続いた。
先日から始まったのが屋良朝苗の回顧シリーズだが瀬長亀次郎の時とは趣きが違うような勝手な感じで受け止めてしまう。
そのすこし前にはコザ騒動、立場によってはコザ暴動。沖縄の人、古い人にはコザ暴動だが、いつの間にか騒動として定着させられた事件。
社会面の左肩は気付くと政権、自民党、基地、戦争など紙面風景で関節批判心情を作り上げている。
沖縄の新聞だから、琉球新報だからと当たり前と勘違いの上に何気なく色濃く政権批判が続くのは、いくら琉球新報でも違う風景であろう。
一重にこれは、伝える側が読者支持層を反映したものでリベラル側の盛り上がりのなさを感じ取り、必死に県民感情に火を付けようと、県民民意への不安の表れとして捉えてしまう。
民族感情をこれだけ煽っても安全領域であるからできる表現であり、手探りではあるが計算されたプロパガンダだろう。
彼らから見たら、今、沖縄は冷えているのである。それが一時的なものなのか?それとも氷河期のように長期にわたるものなのか。
日本本土は少しづつリベラル側の盛り上がりの芽吹きが見え始め、それに反比例するように沖縄が冷めて行かなければいい。しかし、直ぐ変わるものではない。
宜野湾市長選挙の志村氏サイドの小さな個人懇談会のスケジュールがどのようになっているのか?
バロメーターだな。浸透具合がモロに分かるだろう。
そして、気になる物がもう一つある。自衛隊に関する記事の割合だ。内容問わず増えてはいないか?統計的にどうだろう。
今日は安保法による運用開始になるスーダンへの派遣に駆けつけ警護など新しい任務の先送りが噂されている。参議院議員選挙前の実施は選挙への影響が懸念されるとする内容だ。
しかし、先日来、自衛隊配備などとは質の違う自衛隊記事が多くなっている。表に出ている記事は関節的な内部引き締め効果がある。
安保法施行前に不用意に内部情報が漏れる事に政権は神経を使っているのではないか。
ヘリ選定における防衛整備の記事など自衛隊内における反主流派の掃討かもしれないな。
高々、3500人の実働部隊しかいない自衛隊で中国脅威に立ち向かうことに違和感さえ感じない多くの国民がネットで安全保障を語り沖縄を語る。
クナシリ、エトロフにはロシア軍基地が拡張整備されていくが言論には出てこない。温暖化で開ける北海航路、頭のクナシリ、エトロフの基地に頭を押さえつけられた状態で日本の安全保障を語るなど中国以上の問題が進んでいるのではないか?

時間と取り組み

私が過度の心配症なのか。宜野湾市長選挙のオール沖縄側の取り組みの遅さばかりが目につく為、かなり、悲観的な心持ちに偏ってしまっているのだろうか?
1月17日告示である。決起集会が12月9日。
選挙告示一ヶ月半前とすれば、こんなものなのか?
相手、佐喜真陣営の取り組みの速さは危機感の表れが上手く共有され、オール沖縄側の候補者選定作業の遅れを利用し、段取りを充分に踏まえた戦術的取り組みをコツコツと積み上げる努力を重ねているようにみえる。
取り組みの謙虚さはストレートに好感度上げ、相乗効果を生み出す。
タカ派イメージの佐喜真市長も取り組みが進むに連れ、その市民イメージも変貌しているかのように市民市長振りだ。
その際立て役にオール沖縄側の取り組みの遅さが有効に作用しているように見える。
これまでの選挙における日程による選挙戦の意識の上に佐喜真陣営の動きに合わせる事なく、なんとなく胡座を掻いているのではないか?
いつもの選挙、頑張った仕方がないって、やらない事、出来ない事の積み重ねの日々で危機感を薄め、目に見える活動に意識を逃し、宜野湾市長選挙の情勢変化を過去の実績と枠組みを盾に周囲への様子で計っている。まるで我慢比べ。
候補者の個性にもよるのだろうが、このような革新支持層基盤の票を土台とした選挙で保守系が主導権を取る難しさ、よそ行きのクッションある選対では、候補者本人の意思、尻叩きが不可欠であり、取り巻きでは翁長知事であろうと踊れないものだ。
その行為が魅力になり、政治力の成長として生かされていく、できるかできないかも選対雰囲気となり、投票行動にも結びつく、いつまでも、お客様気分、他人事のような選挙当事者ではなく、候補者を引き受けた時点で遠慮は要らない。それが覚悟と言うものだ。
佐喜真市長は年初めから来年の市長選挙に言及し、再選の厳しさを訴えその危機感は広く浸透していた。ここへ来て、その効果が政策訴えともに共有されたように見える。正直、私が宜野湾市民なら、地道な訴えが誠実さに見え、政策チラシを真剣に見てしまうだろう。時間という何にも変える事の出来ない価値を活用した誰にも否定出来ない活動でしかない。
選挙ヘ真剣さは、風景として馴染む時間さえも考え行動してしまう。

2015年12月14日月曜日

ふたりの知事

二人の知事と言うより、復活した高等弁務官かな島尻安伊子の沖縄北方大臣就任。
この島尻安伊子の大臣就任は思いの外、緩んだ堤防決壊防止の杭以上に効果を発揮しているのではないか。
41市町村の首長の翁長への雪崩現象を食い止め、第二の知事以上の沖縄総合事務局のトップとして一括交付金の最上位に君臨している。実際に明確な自民党支持表明的な発言と行動を取る首長は過半数を超える。
本来なら県庁トップの知事の権力は絶大であり、その権力で露骨に予算的圧力を選挙時にかけてくるが翁長知事への首長の忠誠は歴代知事に比べ、それほどでもない。
オール沖縄知事と言えども、元は保守自民党の翁長氏だが保守に全面的に支えられた知事ではなく、仲井真氏がやっていたような高圧的なことがやりにくい環境でもある。それでも民意の後押しが保守首長連合とのバランスをとっている。仲井真知事時代なら4/5の首長は逆らえなかった。
そのような中、島尻安伊子氏の沖縄大臣就任だ。島尻安伊子本人の選挙への影響より、知事の頭越しに予算の窓口が県庁を飛び越え総合事務局、内閣府とできる、なんとも心強い保険、アルソック並みの根拠になる。
二重行政ならぬ二重統治の構造を作り出している。
沖縄の地方自治は一括交付金にほぼ依存し地方行政を行っているのが現状だ。その象徴的な例外中の例外が久辺3区への交付金だろう。
昨晩のニュースで嘉手納以南の基地返還の前倒し、負担軽減の実績として、新たに牧港地区の一部返還が発表された。それにより国道58号線の拡幅工事が行われ交通渋滞解消が期待できる。
宜野湾市以北の住民及び事業者にとっては要請がやっと叶う地域課題がひとつ進む。
当該宜野湾市民へのアピール度は大きい。クリスマスプレゼントに近い。間違いなく市長選挙を勝ちに来ている。そして、その感触も手応えもあるからできる政権の目に見える最大限の選挙応援でしかない。
考えたくないが、ある意味ダメ押し的追加点の意味を込めているのだろうか。普天間基地米軍機レーザー照射事件報道に続き、立て続けに繰り出される政権の露骨な選挙への介入に比べオール沖縄側には代執行裁判報道しかアシストがなく、佐喜真陣営の取り組み攻勢しか流れない中、志村陣営の話はほとんど聞こえて来ない。それに対比するように辺野古報道は続いているが、それを政権は風景として宜野湾市民に見えるように演出にしているみたいだ。
なんだか、ワッショイワッショイとお祭騒ぎのように感じてしまう。
昨日の琉球新報一面の翁長知事の県議会での質疑答弁記事、なんかすごい内容の議論だなと感じるが
自衛隊の次期ヘリ選定における防衛装備品の選定疑惑が気になる。案外、小さなほころびとして広がらないか?変な期待を考えてしまう。あえて自衛隊から、そこがわざとらしくストレートなアメリカの意向としての狼煙?そろそろ、あってもいいスキャンダル。アメリカ大統領選挙も共和党トランプが下降し始め、苦しみながらヒラリーの政権が見えて来れば、安倍一派には、そろそろお役御免の時期が来ても不思議はない。
このような妄想になるのも安倍自民党の選挙の強さが半端なく思えるからだろうか。
やはり、日本は外圧しか政治は変わらないと皆が思っているかもしれないな。

しかし、選挙はやってみないとわからない。最初の情勢報道に注目し、待つしかない。
12月9日は座間味島から辺野古への同行依頼が来た。いっしょに行って来れないかと二人だが、これで12月のノルマをこなせる。

パッと思いつくのは

Eテレ、ミュージックポートレートは、小室哲哉57才と浦崎直哉55才が歩んだ半生に合わせて10曲を選んでいく進行の番組。
小室哲哉はご存知の小室哲哉、浦崎直哉は漫画家、YAWARAや20世紀少年。
漫画はほとんど知らない世界、その代表作の内容も知らなかった。
偶然にも二人は同じ中学校卒業した一つ違いの先輩後輩だが最近まで気づかずにそれぞれの道を歩んで来た。
その二人の結びつきは小室哲哉からの手紙だった。
浦崎直哉の20世紀少年の書き出し部分の描写が小室哲哉の実体験と被るという内容の手紙であった。
そこで二人が同じ中学校出身であり、20センチュリーという曲を校内放送を通して同じ時間を体験した中であった。
曲をかけたのが小室哲哉で聞いていたのが浦崎直哉。その体験が漫画になっている。
世代が近い為、当時の学校生活や校内放送など、確かに共感しやすい話である。
番組は小室哲哉は当然に自分の曲が多く、それに対比して浦崎直哉の選曲が上手く乗っていく。
ともに富田勲の曲が入っているのが面白い。小室哲哉が新日本紀行、浦崎直哉がジャングル大帝。浦崎直哉の最後の曲が映画ガメラのエンディング曲になる。
番組は終わったが
今、直ぐに思い出す曲ってなんだろうと思い起こすとサークルゲームしか出てこない。
理屈で考えれば、いろいろでてくるだろうが、ただ浮かんだのはサークルゲーム。
映画いちご白書をもう一度の曲。
ここに来て、やっと、そうか、いちご白書の曲だったのかと思い出すしだい。
そのような曲しか咄嗟に思いつかない位のセンチメンタルでは選挙は勝てるはずがない。
今の日本の大人たち団塊の世代前後の人たちが支えている左派リベラルの現状は闘争に勝つメンタリティが健全に育ってない人たちに感じてきた。
映画いちご白書を懐かしむセンチメンタルに酔いしれたいという衝動が行動に政治を含む社会活動に現れてはいるかもしれない。
オチがなく中途半端に終わる、いちご白書はそんな映画をエンディングでサークルゲームの曲が映画の内容を忘れさせてくれたような印象しかない。
その強烈なギャップがトラウマになっているのかな。
続けて出てきた映画が死刑台のメロディとネバダスミスでは、かなり病んでいる。
気分が良ければ、メリーポピンズ、マイフェアレディになるはずだがな。

2015年12月2日水曜日

公務員されど公務員か

2015年12月2日 琉球新報を見ながら

興味深く対比できそうな事例を二つ取り上げてみた。
一つは普天間基地の米軍機へのレーザー光線照射事件、去年からこれまで6回程確認されていたという。では何故、今回大きく公表したのか?というふうに勘ぐるのは邪推だろうか。
合わせて政府政権側からの米軍機の墜落事故にも繋がりかねないとコメントまで付けている。
基地反対派の行き過ぎた行為として反対運動そのもの全体イメージへのダメージ効果と普天間基地の危険性を強調した効果はあるだろう。
そのような発表報道は宜野湾市長選挙を前に宜野湾市民への選挙での投票行動、心理に与える影響は少なからずあるだろう。
さらに選挙運動を通して戸別訪問や集会などでことさら上塗りされ誇張され感情的な植え付けに利用されて、そのためのリークかもしれない。
その影響が無視できないと見たのか?今日の新聞記事社会面に「厚木でもレーザー照射、海自機と米軍機に70件超」の記事が載っている。
事実であれ情勢操作イメージ操作を政府が露骨にやってくる意図を感じなければならないな。
二つ目はネットにおける発言だ。
沖縄タイムスのホームページに「座り込みする反対派は蹴飛ばせ」など書き込みした洲本市の市議、議長までやった60を過ぎたおっさん、選挙で選ばれた特別公務員の件とTwitterで「同性愛は異常」と書き込みをした岐阜県職員、他にも沖縄県民や報道機関への中傷の書き込みが記事として取り上げられている。共に沖縄県民感情を逆なでする行為であることは間違いない。この二人の問題は特別であろうが一般職であろうが公務員という身分、明らかにした上で公務員の立場で発言していることである。その自覚があるないにしろ、個人的発言とは明らかに違う。
思想信条、表現の自由は誰にも認められた権利で保障されたものだが公務員という立場を使い行う行為は個人的な行為ではない。特別公務員の市議と県庁職員とは少し違うが公務員であることを伏せた場合でも公務時間内なら弁解は難しい。
公務員の場合、個人的発言でも道義的線引きは難しい。
社会的な肩書きを利用し発言するなら、そのメリットと合わせてデメリットも当然に背負うことになる。
しかし、その反面、社会的に言葉狩りや自由な発言に対して厳しくなるのも首を絞めるようなものだろう。
報道でネット発言を取り上げて記事になることが多い、一々取り上げて社会的メリットはあるのだろうか。感情的な溝を作り窮屈は言葉狩りに拍車をかけるだけではないかな。