2015年12月24日
伊平屋空港について、二題ある。記者席の浦崎副知事と三面下方に小さく島尻大臣記事、バランス?
那覇市議会の委員会会議録公開、沖縄市町村では初めてになる。拡散だな。大きな議会では委員会での内容がすべて、公の議論が広く公開されていない事がまかり通る。自由な議論が阻害されるなどの理由にならない。
非公開のなんの制約のない公の議論に予算を使うのが間違い。
貧困が紙面から溢れるくらいにいっぱい。どれだけ実感として受け止められるのだろう。
手応えがないから、言葉が溢れるのか。
貧困とか格差が社会問題としてクローズアップされ報道に取り上げられる。どこが海外の貧困と区別が付くのだろう。遠い国の話との受け止めてはいない?そのような報道ではないかな。身近な自分の事を言っている事に気付くのだろうか?
貧困、格差の中に自分は含まれているのか?という疑問が湧くのだろうか。比較対象がなく漠然としてはいないか。7割に校納金が払えず、昼食貧困が3割。当事者は実感があるのだろうか。
貧困、格差という捉え方が行く先を不透明にし、出口をなくしている。
弱者、経済弱者、能力弱者など限定的な人たちへ社会的救済のイメージではないか。受取手の目線も上から目線になり、自分の事とは捉えない。
言葉は似た意味を持つが貧困格差と貧富とは違うと思う。
貧富の差によって社会全体に貧困格差社会に向かっているのであって、これだけ広がれば貧困では片付けられる筈はない。
貧困問題ではなく貧富の差によって格差的に貧困が広まっている。しかし、貧困を自覚するまでに至るには中々ならない。7割と3割の中にどれだけ貧困を実感している人がいるのか。
貧困は問題としてではなく社会として向かう道筋としての現象であり、経済格差が学力格差という国民尺度と社会が向かう尺度とのギャップを考えれば、国際基準ではそれは貧困ではなくなる。
貧富の問題として捉えない限り日本の貧困は全体問題にはならない。日本社会は恣意的に貧困社会を目指している目指さなければ成り立たなくなっている。
大学進学率がバカ高く、当たり前になり教育の質の低下、義務教育高校を含む教育の社会性がなく、進学率の高さが学力低下と貧困の一因ともなっていることに触れない。
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