2015年12月23日水曜日

参加する民意、しない民意が

今日は新聞が休み。
1年前の知事選のオール沖縄翁長雄志知事誕生に感じた不安は未だ消えた訳ではない。
沖縄革新勢力の緩やかな後退、革新統一の枠組みの結束が緩くなる、解体につながるのではないかという懸念があった。
その懸念が払拭されたかというと未だ結論は出せない。
しかし、政治力として翁長知事の影響力が増す一方で旧来の革新側の発言力は落ちているだろう。
ゲリラ的な普天間基地包囲閉鎖行動以前と辺野古移設埋め立て抗議行動には運動の多少の分断があるのか?
抗議行動の違いを感じている。
違いは抗議行動ではなく私なのかとも考えたりもする。
空気感が違うかな。空気感は集まった人たちが作り出す。
沖縄観光の良さに沖縄の人のホスピタリティが挙げられる。
それが感じられない♬
宜野湾市長選の選対事務所でも同じだ。唯一、新風会ひやみかちの会事務所には残っていた。
原因は動員力の明らかな低下だろう。
旧革新統一側の政治力が落ちてオール沖縄の茂みに翁長知事の影に隠れて楽を決め込んでいるのでないか。オール沖縄内での闘いのサボタージュ状態かもしれない。
落ちた動員を補う結果としてオール沖縄翁長雄志知事の発信力に期待し集う内地リベラル勢力に頼わざるを得ない。
バランスの問題もあるが支援に来た彼らに対して迎える側のホスピタリティが充分に発揮されることが、彼らが無意義に沖縄に求める闘争の姿に少しながら傾斜したパフォーマンスとなり、空気感かもしれないな。
普天間基地包囲閉鎖行動の時とは真逆な印象を辺野古移設埋め立て抗議行動に見る自分に違和感を覚えている。
抗議行動が自ら湧き出したものなのか求められた行動なのかと不謹慎にも正直な話だろう。
なぜ、普天間の時に同じ激しさができずに辺野古ではできているのか。決して状況の厳しさだけではないだろう。
時代と共にやり方も変わる、そうだろうか?
沖縄の基地闘争が全国規模になったとも言えるし、内地の政治闘争の舞台に置き換わったとも言える。
嵐が去ったあとがどうなるのだろう。
数年はキバを抜かれた時間が続くのだろうか。

沖縄振興予算と高らかに朝早くからNHKが伝えていた。
この予算の名称ほど実態をバカにしたネーミングはない。
県民を含め多く国民の錯覚を誘い、その誤解の上に話をしないといけない責務を放置していてはマトモな会話は成り立たない。
せめて、沖縄総額一括予算くらいにしなきゃ。ダメだろう。
普天間基地包囲閉鎖行動時の怒りと高揚感は辺野古では起きなかった。
到着するまでと到着してから、そして回を重ねるごとに冷めていくのか?
反比例するように山城ヒロジ氏やフミコおばぁの話を持ち出し血走った目で勇しく違う訛りで1人でも多く人が来れば止められると語る、それを聞いた県民は何を感じるだろう。
先日、辺野古ゲート前で朝の行動がひと段落した頃、まばらな新ゲートで1人が突飛に拘束された。
その状況を周りは把握できずにいた。新ゲートにいた拘束されるのを目撃したオッサンが周りをなじった。
お前ら、何をしている。ナゼ助けないんだと、黙って見ているのだと新ゲート前から道を跨いだ反対側にいた人たちを批難した。
一生懸命さは分かる、頑張っているアピールも分かる。本来はアピールではなく同意を求めている。それが強制に見えた時、同じだなと感じる人はいるだろう。
根底のなんのためにを再定義させてしまう。
なぜ、沖縄の人は行かないのか燃えないのか問われているようだ。
文化と軍統治下歴史の違い、沖縄の闘争の勝負どころなり、瞬間的なタイミングなのだろうか。
力での全力闘争を長く行うことを是としない統治下の知恵なのかもしれないな。
それに苛立つ異文化という溝はあるかもしれない

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