琉球新報2015年12月16日
批判、ネガキャンなど、それを行う動機と目的はそれぞれにあるだろう。
批判やネガキャンによる表現は
動機や目的に添った効果は得られているだろうか?
象徴的なものが「安倍死ね」「安倍を許すな」である。
おおさか維新の橋下批判も同類で批判やネガキャンの激しさの割に効果が得られたどころか激しさと比例し孤立し分断を生み出している。
共通するのは個人批判である。人格批判は共通認識を持つ一部の人たちには心地良いもので活動の疲れを癒しストレス発散になり、そして強い絆になる。
批判は広く拡がり世論の線引きを明確にする効果となるが一般の共感を引き寄せることは稀で関わらない動機に結びつき、批判相手の良さを見つける作業へと、民衆独特のバランス感覚が反動のように作用することも考えられる。
安倍自民党への支持率やおおさか維新の根強い人気など期待とは反対の現象として見ることもできやしないか。
表現のあり方や批判やネガキャンによっては、そもそもの批判の元を消し去る効果、遠ざける動機になってしまう事も考えられる。いわゆる人格論へ導かれ好きか嫌いか?単純シンプルな思考への手助けになり、政治のあり方や進む方向性の問題より
尺度のない人物論、人治主義へと選択肢を狭めている気がしてしまう。
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