2016年2月15日月曜日

無表情

東京新聞web記事

機動隊「無表情」で市民排除 重なる「本土の無関心」



名護市辺野古キャンプ・シュワブゲート前の座り込み抗議行動に参加し、機動隊と正面から対峙して誰もが感じる光景だ。
しかし、この無表情な対応は辺野古の機動隊だけではない。普段の日常でも頻繁に経験するありふれたものでもある。辺野古という究極な立場の違い、緊迫した状況の中で至近距離でひとの目を見つめるという特殊な状況が無表情な対応を際立たせている。
コミニティーの内と外、感情を持ちわせていない関係でしか成り立たない業務になる。

これは、辺野古の機動隊だけの特徴ではない。普段の警察官にも言える。彼らの置かれた立場、足元をすくわれないような防御本能が叩き込まれている。
対市民、対消費者など利害や立場の違う「あちら側」に対する冷めた態度と目線だ。

役所での公務員、職員の態度も同じ、コールセンターのお客様担当のマニュアル対応など、人としての感性を殺さないといけない業務全般に関わる話でもあるが普段の生活の中でも当然に、内と外の区別としても見ることができる。その対面した関係では物事の良し悪しは分かり合えるはずもなく、辺野古ような現場で「分かり合える」などとの「幻想」はナンセンスだろう。
よく聞くフレーズが「同じウチナーチユだろ」と若い機動隊に言えば、より感情的にならざるを得なくなる。

マニュアルに従わざるを得ない業務と非マニュアルの抗議行動が重なる事はない。一般論が通じない世界になる。電話先のオペレーターにマニュアルは分かるが一般論でとか、あなたの意見を聞かせてなどに答えるはずもない。
コミニティーのは内と外、職業や地域、国、民族と時と場所、状況によって変わる。

海外での事件事故、邦人の被害はありませんなどや県出身者はいません。などの表現と同じでそれ以外の人に感情がいかないのと似ている。
先日の「刑事フォイル」の場面で、捕まった犯人のドイツ兵に「なぜ、殺した」と聞くと「イギリス人だから」と答える。そこには感情はない。

辺野古の機動隊、抗議する市民に対して感情があろうがなかろうがどちらでも、無表情は唯一の無害の対応かもしれない。それが崩れた時が恐ろしい。

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