琉球新報を見ながら
2015年10月1日
後戻りはできないほど、世の中は変わってしまったのだろうか。
労働組合が世の中から疎外され世論の批判の対象にされ形がい化し、国の政策決定にほとんど影響を与えなくなり久しく時間が流れた。
同時に労働者という概念、立ち位置さえ忘れ去られた結果の先に具体的に見えてきたのが1億国民総貧困時代への叫びだろう。
国鉄がJRになり、電電公社がNTTになり、郵便局が郵政株式会社、そして農協が改革された。
集中的に日教組が叩かれ教員採用時の条件に非組合を進めて弱体化に成功した。
並行して、労働界の統一により連合という組織に再編され公務員組合を押さえ込み無毒化した。
いずれも、日本の労働組合の本山ばかりが民営化と効率、合理化の嵐に見舞われ社会全体の利害から遠ざけられ骨抜きにされ、自己保存のギリギリの環境に追いやられた
教職員組合である日教組の衰退により、学校教育現場の管理が進み、教育委員会がのさばり比例して、学校でのイジメが社会問題化している。
当然といえば当然で学校現場の概念が人間教育から経営管理へシフトすれば、児童学生がはじき出される。
先生は教育者から監視されるサラリーマンになり、子どもたちの心より、客観的な数字が教育の対象になる。
来年から18歳に選挙権が与えられ投票で政治家を選ぶことができるようになる。
その子どもたちへの政治教育をどのようにするのかが検討されている。
日教組が強い時代は、学校生活の中で政治教育に触れる機会は多かった。
本当の意味での政治教育だが、政府はこれを極端に嫌った結果、日教組潰しが政治課題となった。
この政府の行動に結果からして国民の多くは賛同したのだろう。
政治教育とは体制、政府の政策批判の視点を育てる事でしかない。
これを偏った思想とか政治色が強いとかの批判の対象になり、多くの人が問題にする。
しかし、その指摘は近視眼的な視点でしかない。政治への見方、政策への評価などを学ぶには批判的な視点が不可欠になる。
その影響を受けた子どもたちが全て反政府や反体制、社会主義者にはならない。
子どもたちには学校以外にも家族や地域でのコミニケーションがあり、バカではない。
人は年を重ねていくに連れ保守化していく、若い時は純粋に正義感が強く、社会の矛盾に敏感なのは当たり前、その時期に正しい批判精神で政治教育をさせない政府の考えが恐ろしい。
政治家と行政が楽をしたいだけでしかない。
その結果が国民の1%の人に富の30%、10%の人に90%の富が集中し、残りの90%の国民が10%のおこぼれに与る。
大企業の溜め込んだ内部留保が300兆円になり、お金がないからと消費税を上げる。
国民に人生を楽しむ余裕を与えずに、ひたすらお金と生活に追われるように政策を実施しても、誰も文句を言わせない、言う場所もない。
このような社会の継続するには学校教育と政治教育は要になる。
今日の記事に自治体、市町村役場における非正規職員が4割という記事だ。
以外と知られてない社会の影の部分だ。
非正規でもありつければ、ありがたいという程、歪んだ実態だ。
役場が労働者関連法案を1番上手く運用していて、労働環境の底下げを後押ししながら、低賃金社会の問題を政府は非正規をなくしていくとウソぶく。
しかし、日本には労働者を代表し闘う労働組合は全て民営化され、既得権益集団しかない。
1割集団へ這い上がる事しか考えてない。
ほとんどの国民が生活保護による老後を迎える社会しか先がない。そうなれば、年金制度も変わざるをえない。
強制移住による隔離老後管理しか賄えなくなる。古代社会への回帰、非民となる。
企業の不正が社会問題化し話題になる。企業経営の透明化が求められ社外役員の必要性が問われた。
経営の客観性の確保だが、労働組合が強い時代には、働く者の権利として職場を守るという視点が幾らか企業経営に反映されていた事もあった。
それが労働組合は疎外され、それに代わり株主が取って代わる。
労働者が経費として物扱いされるのと並行して、企業のあり方がハッキリと変わった。
政府でもまったく同じように国民所得よりも企業、株主利益を優先して行く、誰の為の、何の為の政策かを問う声も聞こえなくなり、1割民主主義はますます強固になっていく。