2015年9月29日火曜日

とにかくひもじい

8 とにかくひもじい

 戦争が長引くにつれて、村人たちも日本軍も戦いの相手は米軍というより
食料や水を確保することができるかどうかが切実な毎日の仕事になっていました。

 ヌンルルーガマに避難していた村人たちも口にするものがなくて次第に体力が衰えていきます。
 傷を受けた者はどんどん死んでいきました。どうしたら食べられる物が手に入るか、そのことを考えるのに必死でした。

 戦争前に督励されて増産していた作物も村人や日本兵によって根から抜き取られすっかり姿を消してしまっていました。
 後は焼け野が原となった野山にやっと芽を出した食べられる野草を探すことであったが、それもままならぬ状態にあったのです。

 敏子たちは残り少なくなった米を持って、夜になってからアサユヒナまで出かけます。
 明かりもない夜道を星明りをたよりに海岸沿いを歩いていきました。
 沖合いをパトロールしているアメリカの軍艦にも見つからないようにと岩陰を伝ってこっそりと水場を探しました。
 炊事する火が見つけられると、攻撃されるので、工夫して飯を炊きます。
 次々と別のグループが待っているので、急がされます。
 さらに、ガマの中で御飯が来るのを待ちかねている家族がいます。
そのことを思うと期はあせります

 熱い鍋を頭に乗せたまま、来た道を戻るが、満ち潮にあうと脇下まで海水につかりながら海中の岩や石に足をとられないように慎重に歩を進めなければ
なりません。
 なにしろ、頭にはみんなの命とも言える大切な食べ物をいただいているのですから。

 敏子の母は珊瑚礁でアキレス腱を切られてしまい、しばらく歩けなくなったので敏子が煮炊きの役をになうことになりました。
 こんなに苦労して作ってきた御飯ではあるが、一回の量は一人せいぜいお握り一個ぐらいです。
食べ盛りの敏子の兄は御飯を食べ終わる度に「腹いっぱい御飯が食べたい」という言葉が「ご馳走様」のかわりになっていました。

 彼は鰹船の「伝馬ひき」の仕事をしていました。
それは本船が鰹の餌をとり終えたら、使った幾尋もある網を伝馬船に積み上げて母港に持ち帰る役目なのです。
数キロメートルも離れた餌場から一人で三メートル余りもある櫓をこいで帰る体力のいる仕事です。
波の荒い日や風の強い日でも自分ひとりの力がたよりなのです。
だから身体は鍛えられていました。
このような若者が一握りの御飯で満足するはずはありません。

 このままの状態が続くならば餓死を待つだけだ、とガマ内の人たちは考える
ようになりました。
 集団自決を提案する者いたが、ガマから出て行く家族が増えてきたので実施までには至りませんでした。
 その頃から外部の情報がガマにも届くようになっていたのです。
 
 阿真村に収容されている人たちはアメリカーからたくさんの美味しい食べ物が支給され、傷ついた人たちは野戦病院で親切に治療してくれるという話です。
 また、親戚や身内の者を探して収容先の阿真村からやってきた者もいます。
島を囲んでいる艦船からは投降を呼び掛けの声がスピーカーから流れてきます。
 しかし、村人たちは、それらの内容を信じませんでした。
腹いっぱいの食事を与えられた後に殺されるんだ、阿真村に収容されている人たちはそういう運命になるんだ、としか思っていなかったのです。

宮城恒彦著「投降すものは」より

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