2015年9月28日月曜日

後退する日本軍

7 後退する日本軍

 1945年3月26日の早朝、座間味などに上陸した米軍は50時間内でケラマ諸島を制圧しました。
 迎え撃つ日本軍は海上戦闘のために鍛えられた海上艇進第一戦隊(特幹隊)が主な要員なので、陸上での戦闘にはなれてなかったし、それに、必要な武器・弾薬がまったく不足していたのです。

 物量を誇る米軍の相手ではありませんでした。
 島の後方の山岳地帯(阿佐村の北東に連なる山々)に後退せざるをえなかったのです。
 途中、貧弱な武装で何度かの反撃を実施したが、大半が米軍の近代装備の砲門の前に累々と屍をふやしていくばかりでした。
大和魂だけで勝てるような米軍の戦力ではなかったのです。

 座間味における当時の日本軍の戦況を「座間味戦回顧日誌」(砂川勝美氏 記)の中から拾わせていただきました。

 *「米兵の数名は上陸(座間味26日午前9時)後20分足らずで下の本部壕(タカマタ・高月山の麓)近くまで進行してきた。・・・・・・
我々は応戦するだけの武器もなく全員壕を脱出し高月山に向かった。」

 *「午後7時過ぎ大迫中尉より本部候補生全員に集合命令がかかり、舟艇の出撃は到底不可能、よって我々は陸戦に備え、兵器こそないが、日本人として最後まで戦え・・・と訓示があった。」(3月25日)

 これは次の記録とも関連してます

 *「軍の舟艇整備および出撃準備のため来島(3月23日)していた船舶団長の
大町大佐が沖縄本島へ帰る途中、米軍の警戒網にかかり戦死する。その後つぎのような電報が届いた。
 「・・・ケラマでの状況を実際に視察してきた現状では舟艇の出撃は不能と断定し戦隊は舟艇を破壊し、兵員は島を死守せよとの無電命令が届いた。
直ちに本部から戦隊の各中隊に対して舟艇を破壊し、高月山の後方(シンナークシ)に集結せよと、伝令が走った。」(3月26日)

 この記録でケラマからの米艦隊への海上襲撃は実施されなかったことが証明されます。

 *「十名ほどの米兵が高台の真下近くに迫った時、隊長の号令一下、今まで沈黙していた阿佐平(日誌の状況からチシへ行く台地一帯と推測される。おそらく日本軍の命令した地名であろう)の基地中隊からの一斉攻撃に敵は驚き、後退を始めた。
大迫中尉も機関銃の引き金をひいた。・・・ところが、弾が出ない。バネがない。
唯一の火器が役にたたない以上もう後退しか方法はない。
折から降りだした雨は急に大粒となり、米兵たちも退却を始めた。

 降りだした雨はたちまち土砂降りにかわった。私は(砂川)中尉の命令で皆の大切な蛋白源だと、部隊から預かった二頭のヤギを連れて山に向かった。
 ところがヤギのほうが山道を歩くのが速く、私はすべったり、転んだりしながらヤギにひかれるようにして後をついて行ったが食事もとってなく衰弱している体が耐え切れずとうとう手にしていた縄を放してしまった。」

 *「26日の朝、米軍は古座間味にも上陸した。昼間は全員壕内に潜み、夜になって本隊に合流するため、全員が壕を出て前進を始めたところ、峠(おそらくカンジャー山のアンキナ)の米軍陣地(上陸と同時にブルトーザーがカンジャー山の山肌に道を開けながら
上り、たちまちのうちに頂上に陣地が構築された)から機関銃の攻撃を受け
津村中隊長、榎本少尉、神守候補生が戦死した。
 その後、再度壕から出ようとしたが機関銃の攻撃は前より激しく、第三中隊は、その翌日より古座間味で交戦し、江口少尉、清水候補生らも戦死した。(4月8日)

 *「・・・・大岳の戦闘で日本軍は20数名の戦死者を出し、隊長は脚に、高橋候補生は胸と尻に梅村候補生は手に負傷した。その他多数の負傷者を出し、本隊は全滅したとか・・・」
(4月11日)

 日本兵たちは戦うというより、生き長らえるための食料さがしに懸命になっていた模様です。
そのために命を落とした兵も多く、米軍上陸から10日しか経てないのに日本軍は食料に困り出しています。
また、砂川氏の回顧録を借ります。

 *「艦艇が多くなり、その頃から米軍は日本機の神風特別攻撃を警戒して日暮れから毎日のように煙幕を張るようになった。煙幕が張られ、しばらくたち、辺りに銃声も止んだ頃、島の裏海岸の方から表海岸の一軒家付近に20名くらいの人々が集まってきた
山の草むらに潜んでいた我々も最初は何者かと思っていたが、やがてそれらが島民であることを知り下山した。
島民は感激のあまり兵隊に抱きついてお互いの無事を喜びあった。
その夜は島民の乏しい食料の中から何かしらの夕食が我々にふるまわれた。(3月28日)

 *「座間味部落の敵の幕舎(テント)から糧秣(兵士の食料など)を奪う目的で各隊から21名のゲリラ隊員が選ばれた。そして、隊員たちは三班に分かれて出発したが整備中隊の内藤中尉の班は米軍陣地に突入して全員戦死、本部関係からは間瀬軍曹、高橋、清野、鈴木、出口の四名が参加。
途中、地雷にかかり鈴木候補生は腹部貫通で死亡、間瀬軍曹は鉄帽が裂け、右耳の半分が吹き飛ばされながら夜明けに帰隊した。
清野は腕に負傷しながら戻っていた。(4月5日)

 *「その頃、敵の上陸時に携帯食くらいしか持っていなかった我々は食料に窮しており、日に一度の味噌汁程度の給与が精一杯で、隊員の体力は日々衰弱していくばかりであった。
 その折、整備中隊の数名の兵士が座間味部落に侵入し、農業会壕(学校裏の村三役などが自決した産業組合壕)の自決死体の死臭の中から幾らかの米を運び出し本隊に持ち帰ったことにより我々は多少なりとも急場をしのぐことができた。
 本隊と行動を共にしていた女子青年団員(座間味)は乏しい糧秣の中をいろいろとやりくりして隊員の食事を作ってくれていた。(三月末から4月上旬)

 *「部隊の解散後も毎日のように隊員の傷の手当てにきていた軍医、衛生兵も5月上旬からあまり来なくなった。もうその頃には衛生隊にも薬もなく、赤十字のマークの入った背嚢の中には幾らかのイモしか入ってなかった。(5月中旬)

 「沖縄方面陸軍作戦」によるとケラマ諸島での日本軍の配置と死者は次の
通りと記される。

「座間味」        配置数    死者     生存率
戦隊           104名    (69名)    34%
基地隊          250名    (100名)   60%
船舶工員          50名   (32名)    36%
水上勤務          40名   (15名)    62%

計            444名   (216名)平均48%

「阿嘉島」        配置数    死者    生存率
戦隊           104名    (22名)   79%
基地隊          234名    (65名)   72%
水上勤務          21名    (10名)   52%

計            359名    (97名) 平均68%

「渡嘉敷」        配置数    死者    生存率
戦隊           104名    (21名)   80%
基地隊          216名    (38名)   82%

計            320名    (59名) 平均81%
水上勤務          13名(不詳)

 この記録を見た限り、渡嘉敷に駐屯していた日本軍の生存率が高く、座間味、阿嘉島との差が大きいのはどうしてだろう、と疑問をもつものです。

 太田良博著「戦争の反省」の中で著者はつぎのように述べてます
「米軍の記録は、座間味島、阿嘉島では日本軍の手ごわい反撃にあったと書いてあるが渡嘉敷島の戦闘については特にふれられてない。渡嘉敷住民も戦闘らしい戦闘はなかったと言っている。」さらに続きます。
「・・・・日本軍の抵抗はほとんど無視できるほどのもので米軍は日本軍の応戦より島の地形に悩まされたといっている。
あれだけの砲撃(野砲による500回以上の攻撃の他艦砲射撃、空襲、陸上砲撃)で「陣地らしい陣地もなかった」と赤松隊長が証言している小島で隊員の犠牲は以外と少ない。
・・・・日本軍は抵抗らしい抵抗をやった様子がない。」

 かえって、無関与さえ示唆してます。
米軍の記録によると米軍は日本軍との降伏交渉に臨んだがそれには応ぜず、もし、日本軍陣地に接近さえしなければ、こちらから攻撃を加えることはしない。
米兵たちが渡嘉敷ビーチで水泳しても何もしない、と答えたといわれています。
このような状況では隊員の死者が増えるはずはありません。

 宮城恒彦著「投降する者は」より

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