三 十・十空襲
日本軍が座間味島に駐屯してから島の人たちは友軍の戦闘態勢に協力するように組み込まれていきました。
小学校の生徒は燃料用の薪取り、高等科生は遠く離れた阿佐のマチャン原での開墾と農作物作りにかり出されました。
大人たちは一坪でも広く耕し、少しでも多く食料増産に努めるように督励されました。
昭和19年の10月10日、その日は快晴の日曜日でした。
初めて経験するアメリカの艦載機による空襲があったのです。
どのように避難していいか分からず、阿佐村の人たちも右往左往して逃げ惑いました。
高等科1年生だった高江州敏子は急いで逃げ込んだ誰もいない坊空壕の中で震えていました。
家族はそれぞれの仕事に出かけており、家でひとり留守番をしている時に
空襲にあったのです。
怖い夢の中をさまよっているようでした。
艦載機の一群は渡嘉敷の上空から高度をさげて阿佐村に突進してきます。
しかし、攻撃の対象は船舶のようで、海岸線に沿って旋回しながら攻撃態勢にはいっていたが、港には獲物を見つけることができなくて、そのまま阿佐村の上空を通過して座間味の方へ姿を消していきました。
しばらくすると座間味の方から機銃の音に混じって爆発音が聞こえてきました。
空襲はその日一日で終わりました。
空襲警報も解除になり、翌日からは飛行機の姿も消え、村人たちは平常の
仕事につきました。
生徒たちは学校に通いましたが敏子はあの空襲の恐怖がまだ取れず、通学を拒み、しばらく学校を休みました。
家の人の勧めや友人の誘いにまけてやっと数日後に登校したら担任の先生にひどくしかられました。
「こんな弱い子であってはいけない。本当の戦争になったらどうするつもり・・・」
敏子は下をむいて黙って先生の叱声を聞いていました。
先生の説教は長々と続いていたが、その辛さより、あの飛行機の爆音の怖さがまだ尾を引いていたのです。
先生がどんなことを言ったのか耳に残りませんでした。
日本軍が島に駐屯してひと月たった頃、日本兵と村人との親睦をはかる目的で演芸会が計画され、兵隊たちや村人たちもその準備に取り掛かっていました。
国防婦人会の役員たちはその日に提供する飲食物のメニュー作りに走り回っていました。
座間味の海岸近くの草原(今の総合離島センターの位置に)には仮設の舞台も作られました。
座間味港の岩陰に避難させていたので、空襲から助かった島の鰹漁船の新盛丸と新興丸は那覇との連絡船として軍に徴用されました。
鰹船としては、たった一隻残された阿佐村の所属の英泉丸は演芸会後の親睦会に使う海の幸を求めて鰹釣りに出かけていました。
空襲のあった10月10日は天気にも恵まれ、英泉丸は近海でとれた鰹を満載して意気揚々と帰途についてました。
「今日は兵隊たちや村人たちにも久しぶりに美味しい鰹が食べてもらえる」
と船員たちは満足し、「パンパンパン・・・」と焼玉エンジンも
リズミカルに音を立てながら、座間味港への岬の近くまでやってきました。
ザマンウルンヌサチ(現在のマリリンの像所在地)の沖にさしかかった時です。
右前方の阿波連の上空から二機の飛行機が低空してきました。
アッという間もなく「ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、・・・」「ダ、ダ、ダ、・・・・ダ、・・・ ・・」と機銃掃射して、屋嘉比の方へ飛び去っていきました。
船には当たらずに海面に「チュッ、チュッ、チュッ」と小さな飛沫の長い列を作っていきます。
船体には当たらないので、いたずらに発射した日本軍の飛行機の演習だろう、と船員たちは思いました。
しかし、実弾を発射している事と、さらに両翼には星のマークがついているので敵機だと判断した船長は舵を握っている船員に「早く船を阿真の港へ向けろ!」と大声で命じました。
この突然の出来事にうろたえた船員の一人は海に飛び込んで岬の方に泳いで逃げました。
阿真に戻るのは、もう遅いと覚悟した船長は船をアカエー(今の村の運動場から岬よりの方)の岩陰に乗り上げようとエンジンを全開にさせました。
しかし、所詮飛行機のスピードには勝てません。
また、阿波連の方から海面すれすれに低空し、間違いなく英泉丸を狙って直進してくる二機の敵機に遭いました。
「だ、だ、だ、だ、・・・」「だ、だ、だ、だ、・・・」と機銃を掃射し、「ブォーン ブォーン」と爆音を残して、瞬く間に飛び去っていきました。
連発された弾が今度はエンジンに当たって完全に機能が止まってしまいました。
動けない獲物は格好の攻撃の餌食になります。
敵機は二、三回、旋回を繰り返しながら英泉丸を食い殺しにかかってきます。
矢のように赤い線を引いてる弾も見えます。
突然の空襲で船内は混乱してしまいました。
機関室に隠れていた船員の大城喜功(ウーグスク)と大城亀(ミージョー小)の二人は燃え始めた船内の熱さにたえられず、飛び出そうとしたところを再び発射された機銃に撃たれ、その場に倒れました。
船長の宮平太郎も背部から弾が貫通していました。
敵機は海中を泳いで逃げる者にも機銃を浴びせました。
船員たちは飛行機の攻撃の合間をぬって負傷した者を本船に積んでいた
伝馬船に乗せ元気そうな者が総がかりで櫓をそれこそ死に物狂いに漕いで
岸にたどり着きました。
そして、すぐに負傷者を日本軍が設置していた病院に運びました。
しかし、病院といっても名ばかりの、ただの民家だったのです。
大城喜功は即死の状態でした。他の二人の出血はどうにか止まったものの、
大城亀は重体でした。
手当てをしてくれる者がいるわけでもないし、狼狽している家族の者も応急処置がわからず悶え苦しむ負傷者をただ側で泣きながら見ているだけでした。
とうとう亀は息を引き取りました。
防空壕に避難していた阿佐村の人たちは、その騒ぎを日本軍の事故だと
受け取っていました。
だれ一人自分の村の船がアメリカの飛行機にやられたとは考えてもいなかったのです。
ましてや、その中に身内の者がいると思う人はいませんでした。
この空襲で亡くなった人たちが座間味における沖縄戦の最初の犠牲者と
なりました。
そのことで不気味な戦雲の雲行きが島全体をおおうことになります。
それは、その後に襲ってきたあの地獄絵のような戦場への序曲だったのです。
宮城恒彦著「投降する者は」より
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