宮城恒彦著
「投降する者は」の前書き「帰ってきた教科書」より転載
沖縄戦で座間味に上陸した一人の米兵(テキサス州出身のフォイト氏)が
私の叔父の手紙を米国に持ち帰り五十数年もの間、保管していたようで
その手紙の主を探しているとの記事が三年ほど前の新聞に載ったことがあります。
その後、幸いに一人娘の元に届けられて、父親の唯一の形見となりました。
その後、しばらくして、また、フォイト氏が一冊の国定教科書「高等小学読本巻ニ 文部省」(昭和15年8月発行 定価 金拾弐銭)が送られてきたのです。
くしくも、その持ち主がこの体験記に出てくる、十・十空襲の日、鰹船に乗船中、米艦載機の襲撃を受けて即死した座間味出身の大城喜功(屋号ウフグスク)さんです。
彼は高等科を卒業し、成績も上位で、上級学校への進学を強く希望していたが家庭の経済上の都合で進むことができなかったのです。
長兄が出征していて農業をしている両親の力だけではどうにもならず諦めていたが進学の志捨てがたく、学資を稼ぐため、叔父が勤めてた阿佐村の漁船「英泉丸」で働き、いつか進学できる日を夢見ていたのです。
当時、進学できた学生たちは島の誇りであり、後輩たちの憧れの的だったのです。
中学校(今の高等学校)の学生帽をかぶって故郷に帰省する学生たちを喜功さんはどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。
鰹漁業の一日は朝が早く、春まだ浅い時期の午前三・四時から出漁し、餌になる小魚とりの仕事から始まります。
若者はたちはまだ暗い海中に飛び込んで餌になる魚の群れを探すまで長い時間泳ぎ続けます。
見つけたら全員で長さが数メートルもある網を操って小魚をすくいあげます。
そして、活け間(漁船の中央部に設けた生簀)に活かしながら遠く離れた
漁場まで運び、鰹釣りの餌にするのです。
同じ仕事を毎日十月頃までつづけます。
また、漁にでない冬場になっても、鰹節製造の燃料になる松材を伐りだして、肩に担いで運搬してくる作業にかわるのです。
きつい労働でした。
だから、親の子供たちへの学習督励のくちぐせの言葉は「勉強しないと、鰹組合にいれて苦労させるよ」という文句でした。
喜功さんは漁場に持参するフタディル(竹で編んだ籠)の中に弁当と受験用の講義録(講義の内容を発行している書物)をしのばせて、漁場への往復の時間を利用して勉強をしていたといいます。
教科書の表紙に「第一中学校」「農林学校」「師範学校」とみずから書いた進学を希望する学校名の筆跡にこめられたその心中を察すると、心が痛みます。
特に「第一中学校」の下に記された「合格」の文字に願望の強さがひしひしと伝わっています。
長兄の喜正さんは、その帰ってきた教科書を立派な表紙で装丁し、志半ばにして戦争の犠牲になったたった一人の弟の大切な宝物として保管しています。
一 阿佐人 甲
座間味島には三つの集落があって、一番大きい座間味、次に島の西に阿真村そして、北東に阿佐村が位置してます。
この村は島で一番高い番所山を背にし、南には展望がきく高月山がそびえています。
所帯は三十軒ばかりの小さな字でした。
前方には良港として名の知られる阿護の浦をかかえ、琉球が中国(明や清)と進貢貿易のあった時代には絶好の中継地として栄えた歴史を持ってます。
中国から帰りにこの浦に立ち寄った唐船の乗組員や商人達は阿佐村で疲れを癒した後、那覇へ帰って行きました。
島人たちは、彼等の体験談に胸をふくらませ、中国からの珍しい文物のおこぼれにもあずかりました。
さらに、村の有力者であった与那嶺家の別荘で酒宴を催してくつろいだという記録も見られます。
沖縄戦当時、阿護の浦には米軍の移動式ドック艦が四六時中停泊し、日本の特攻機などによって撃破、破損された艦船の修理をしていました。
現在は台風シーズンになると、近海で操業中の県内外の漁船が避難のために
入港してきて、港は賑わいを見せます。
日頃は島守りの神々が祭られている赤碕、中岳、大岳、小岳の岳々が歴史を語るように穏やかな浦の海面に神々しい姿を写して見せています
村の南の沖合いには、太平洋からの波を遮るように渡嘉敷島が横たわっています。
その島の稜線にそって季節の推移・・・・・・・
宮城恒彦著「投降する者は」より
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