沖縄戦体験記 第18号 「投降する者は」
ニ 日本軍の駐屯
阿佐村のような小さな村にも戦争の波が押し寄せてきました。
そして、人々の暮らしも一変し「戦争に勝つために」というスローガンのもとに結集させられました。
戸惑いのうちに村人たちの生活は軍事一色に塗られていったのです。
そして、昭和19年(1944年)9月10日の夜、突然、1000人に近い日本兵が座間味島に夜ひそかに上陸してきました。
当時の人口の約半分にあたります。
何も知らされていない村人たちは「こんな小さな島にどうしてこんな多くの兵隊が?」と不思議に思い異様な雰囲気に包まれました。
たちまち学校や公共的な施設は兵舎に早変わりしました。
それだけでは収容できないので民家にも分宿が割り当てられたのです。
将校たちは一家屋に4・5名が寝泊りしていたが一般兵士は六畳間に7・8名も詰め込まれました。
参考までに、旧日本陸軍の兵士の階級をあげてみると、入隊すると一般兵士はひとつの金星印がつく二等兵となります。
経験年数や実績で星と金筋モールの数が増え、一等兵、上等兵、兵長、伍長、軍曹、曹長准尉、これからは尉官となり、少尉、中尉、大尉とつづきます。
そして、少佐、中佐、大佐の佐官に昇進します。
さらに、准将、少将、中将となり、将官の最上位は大将と呼ばれます。
ちなみに、座間味や阿嘉に派遣された部隊の隊長の階級は少佐でした。
軍隊では階級の上下がすべてものを言う社会でした。一つでも階級が上の者の言うことには絶対服従です。
年齢、入隊前の職業、学歴など全く無視された組織でした。
たとえ、先輩の者であろうが、恩師であろうが、自分より階級が下であれば
命令できたのです。
「上官の命令は天皇陛下の命令だ」という一言で直立不動の姿勢で命令には
「はい」「はい」の連呼でただ従うしかなかったのです。
座間味を占領していた米軍は昭和20年の12月の末には沖縄本島へ引き上げています。
その年の6月には座間味で捕虜になった日本兵たちもすでに沖縄本島に移動されています。
それなのに戦争が終わったのも知らず、沖縄戦が始まってから一年七ヶ月も阿佐のチシのガマに隠れていた日本兵が二人います。
餓死寸前までに衰弱していたのを地元の人に発見されて救われました。
生還したその一人である香川県の高松市出身の砂川勝美さんの回顧日誌によると座間味に駐屯した海上挺進戦隊の任務をつぎのように説明してます。
「海上挺進戦隊とは、長さ5メートル、幅1.5メートル、深さ80センチ、厚さ約20ミリのベニヤ製の舟艇に75馬力の自動車エンジンを搭載し、速力20ノット(約37キロ)で120キログラムの水中爆雷二個を装備し、夜間を狙って敵艦船に三艇一組として体当たりを敢行し、これを爆破撃沈させる目的で編制されたものである。
この特攻艇には海軍特攻艇と陸軍特攻艇の二種類あって、その攻撃の仕方は違っていました。
海軍の特攻艇は艦首に大量の爆薬をつけ、敵艦に船もろとも突撃して相手を撃沈させる「必死艇」であるが、慶良間に配属された陸軍特攻艇は敵艦隊に肉薄し、船尾の爆雷を投げ込み、水中でドカンとやって船体の下腹部に穴をあけて沈没させるのを狙っていた
「決死艇」で生還率は高かったのです。
慶良間諸島には、この陸軍特攻艇が三百艇配備され、渡嘉敷村に百、阿嘉・慶留間島に百そして座間味島に百艇隠されていました。
その船に乗って攻撃する兵隊たちのことを島の人達は「特幹兵」と呼んでいました。
舟艇を整備する中隊とそれを隠匿する壕堀りの部隊が主であったが任務が終了すると途中から隊の大部分は沖縄本島へ移動し、その後に数百名の朝鮮軍夫がやってきたようです。
阿佐村にも特攻艇は配備されていたが座間味などのように海岸近くの岸壁や山肌に横穴を掘ってはいませんでした。
すぐ目の前には阿護の浦が広がっているので出撃は容易でした。
それで、艇は海岸の茂みやアダンの陰に擬装して隠していたのです。
しかし、これらの特攻艇は沖縄戦が始まるとすぐに軍命によって爆破され
役目を果たすことなく姿を消してしまいました。
阿佐村にも日本兵は分宿していたが、大きな屋敷と家屋を持つ民家に主として将校たちが割り当てられました。
トゥンヌ前(平田家)は軍の炊事場として使用されました。
広い庭に幾張りかのテントがたてられ、味噌樽や砂糖樽がずらりと並べられていました。
貴重な食料なので監視の目は厳しかったが、平田家に時々食事や味噌、砂糖のお裾分けがあったようです。
宮城恒彦著「投降する者は」より
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