2015年9月22日火曜日

賑わう演芸会 沖縄戦争体験記

四 賑わう演芸会

 米軍の艦載機による英泉丸の襲撃事件は戦争近しの前触れとして島の人たちを不安に陥れましたが日本軍にとって戦場における一部の死傷者と考えていたのでしょう。
 関心もうすく村人のような動揺は見られませんでした。

 それでも、予定されていた軍主催の演芸会は実施されました。それは、日頃のストレスを噴出させたような盛況ぶりでした。
 出演者は「おらが県の十八番をみよ」とばかり熱が入っていました。
兵隊たちは、それぞれ故郷を思い出したのでしょう、自分の県の出し物には
盛大な拍手を送っていました。

 特に、それまで見たこともない女形の演技には笑いと拍手が続きます。
会場の人たちを歓喜の渦に巻き込み、そのどよめきが晴れた秋空に吸い込まれていきました

 座間味からは国防婦人会や女子青年団の友情出演もありました。
女子青年団の役員たちが教えたという「安里やゆんた」の踊りと唄は人気を博し、その後、兵隊たちが機会ある度に口ずさむメロディーとなりました。

 サー 君は野中のいばらの花よ
   サーユイユイ
 暮れて帰ればやれほにひきとめる
  マタ ハーリーヌチンダラ カヌシャマヨ

 特に、はやしの「ハーリヌ チンダラ カヌシャマヨー」のくだりは
「ハーメーが死んだら神様よ」と方言に言い換えられ、喜んで唄っていました。
 
 回りをテントで囲っただけの仮設の簡単な舞台でした。
バックの風景もなく、手作りの粗末な装置・衣装での演出ではあったが出演者は真剣そのもので、軍律の厳しさを忘れ、一時の名優になっての熱演でした。

 九州出身が多かったのか「月がでた出た 月が出た・・・」の「炭鉱節」や「長崎物語」「紅い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る・・・」
の踊りや歌は好評でした。
楽器や伴奏もなく、ましてや、マイクなんてありません。

 肉声だけでの演技だったが初めて兵隊と島の人たちが一つになって浜辺の原っぱに展開された最高のエンターティメントでした。

 しかし、この行事は初めてで終わりの催しとなってしまいました。
数ヵ月後に地獄を見る島になるとは神ならぬ身の知る由もなかったのです。

 十・十空襲によって村の連絡船の鹿島丸が那覇の港で撃沈されてから、人や生活物資の正常な運搬や搬入ができなくなり、ますます暮らしは苦しい状況に追い込まれました。

 孤立無援となった島は自分たちの力で生き延びる方法を考えなければならない苦境にたたされたのです。
 入り江の岩陰に隠していて、どうにか空襲から逃れていた漁船を日本軍は徴用して那覇との連絡に使っていたようです

 年が明けて昭和20年に入ると、戦争の雲行きがいよいよ怪しくなってきます。
 二月の末頃、高月山や阿真方面の上空に、夜になると数回にわたって信号弾のような物が打ち上げられることがありました。

 兵隊たちは非常呼集をかけられ、現場と思われた場所に出かけ探索したが証拠をつかむまでにはいたりませんでした。

 そして、米機動部隊による大空襲を一日前にした3月22日、阿真シルの海岸をパトロールしていた日本兵たちは漂着していたアメリカ製のゴムボートを発見しました。

 米兵たちは浮上した潜水艦から島に上陸し、偵察を終えた後、仲間への合図のあの信号弾を打ち上げ連れ戻されたのだろうと、隊長は推察してました。

 ボートの空気は七割がた残っていて、携帯食の包みや飲み物がボートの中や
砂浜に散乱してました。
 間違いなく米兵たちは上陸していたのです。(この信号弾の話は元日本兵の
砂川勝美氏の手記を参考にする)

 また、こんな話も残ってます。座間味を占拠した米兵たちが番所山を探索し上陸前に印をつけた木の幹を確認したということです。
 座間味島の裏海岸に夜間、潜水艦からボートで降りた米軍の斥候兵が獣道を登り島を偵察した証拠です。
上陸以前にかれらはすでに島の地形を把握していたかも知れません。

 宮城恒彦著「投降する者は」より

0 件のコメント:

コメントを投稿