沖縄戦体験記第18号
「投降する者は」 著者 宮城恒彦
印刷 グローバル企画印刷(株)
なぜ「戦陣訓」が民間人にまで
(添え書き)
日本は太平洋戦争を始める前(昭和12年=1937年)からすでに中国と戦争をしていました
日本は太平洋戦争を始める前(昭和12年=1937年)からすでに中国と戦争をしていました
(支郡事変=日支事変=日華事変=日中戦争の呼び方がある)。
その解決のめどもつかないまま、戦いは長期化し(4ヵ年)し、泥沼状態になって行ったのです。
兵士たちの士気や資質は低下し、上官に乱暴したり、戦場から離脱する者が出たり、さらに、中国国民にたいして強姦・略奪・放火などの悪質な行為が続出しました。
広大な中国大陸での日本軍の統制はまとまりがつかなくなってしまいました。
その状況を憂い、軍司令部は軍記、風紀の乱れを正し、「皇軍としての道義の高揚」を促すために作られたのが「戦陣訓」です。
その中に、集団自決の問題が持ち上がる時に必ず顔を出す「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず・・・・」の言葉があるのです。
この訓全文は、「序」・「本訓」・「結び」との三部から構成されています。
この中で、国民を集団自決に、日本軍を玉砕に追い込んだ「生きて捕虜になるな・・・」の文章は本訓に次のように記されているのです。
「恥を知るものは強し。常に郷党、家門の面目を思い、いよいよ奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」と。
当時の日本陸軍は主として県を単位に編制されていたようで、だから、顔見知りも多く郷土愛に燃え、連帯感が強かったと言われてます。
その故郷を愛する心情をうまく利用して「常に郷党、家門の面目を思い」(恥ずかしいことをしたら、故郷に顔向けできないぞ)の文言が入れられたのではないでしょうか。
故郷の父母兄弟を守るためには命は惜しくないとの精神を吹き込むために。
しかし、沖縄には郷土連隊がなく、出征すると、主に九州の他県の部隊に配属されていました。
沖縄出身者は共通語がうまく話せず、そのことで相当苛められた人が多かったようです。
この「戦陣訓」が発表された昭和16年(太平洋戦争勃発の年)の1月8日の「朝日新聞」で当時、陸軍大臣だった東条英機が説明した趣旨を報道しています。
その中に次のようなコメントも見られます。
「・・・・この訓を至達する所以はいやが上にも皇軍の真価を発揮せんがためだ・・・」
「我が将兵を真に恥ずる所なからしむよう銘記すべき事項を列記してある」
何十項目にもわたる文面に目をおとしても、住民を死に追いやるような文言は見当たりません。
かえって「敵及び住民を軽侮するを止めよ」の項目を趣旨説明の具体例としてあげているのです。
約4200字の32ページにわたるポケット版のこの訓は、中国ばかりでなく、東南アジア・南方方面の軍隊、そして、沖縄駐屯の兵隊たちの座右の銘にするためにつくられた道徳訓、いわば、兵士に死を強制したものでしょう。
では、なぜ戦争とはまったく関係ない民間人にまでその影響が及んだのでしょうか。
「米兵に捕らえられたら残虐な殺され方をされる」という流言蜚語が飛び交い、県民を恐怖と戦慄の渦の中に巻き込んでしまった理由は何処にあったのでしょうか。
新聞・雑誌・ラジオなどマスメディアの媒体のまったくなかった田舎での情報源は限定されていました。
戦争に関する情報から完全に遮断されていた村人たちは誰から戦争についての情報を得ていたか推察すれば、それらの人物の影が浮かび上がってくる。
このたった一文の「戦陣訓」の言葉が数多の兵士や県民の命を奪ってしまったのです。
「戦陣訓」の原案は軍関係学校の教官、前線の部隊長、幹部などの意見を集約して昭和15年の秋にはほぼ完成してます。
さらに、国体観については井上哲次郎、和辻哲郎などの学者などに目をとおしてもらい、文章表現は島崎藤村(椰子の実)、土井晩翠(荒城の月)、佐藤惣之助(琉球諸島風物詩集)など、名の知れた作家や詩人に検討、加筆を依頼してます。
国民全体が脇目も振らず火の玉となって戦争に突入していった非常事態の世の中であったのです。
宮城恒彦先生の「投降する者は」の添え書きから
前文・本文と紹介していきます
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