五 ヌンルルーガマへ
3月23日、地獄のような戦場の始まりです。
その日の昼近く、阿佐村の上空を小型飛行機が四機通過していきました。
攻撃はありません。
すると、海向こうの渡嘉敷の上空から数機の艦載機が阿佐村の上を旋回しながら座間味の方へ去っていきました。
しばらくすると、雷鳴のような爆発音がおこり、南の方から黒い煙が流れてきました。
阿佐村への攻撃ではないのに敏子は近くの防空壕に飛び込んで、遠くに聞く攻撃の轟きに震えていました。
しかし、飛行機が撃ち込んだ焼夷弾によって辺りの山野は大火事になりました。
村の近くまで火が近づいてきたので、家族の者と一緒にウトゥミジ(ンチャーラ村の入り口)に掘っていた自分たちの壕に避難することになりました。
そこには、非常食として大事にしていた黒砂糖や鰹節など前もって保管されていました。
家族は8名でしたが、その頃は両親、四男の芳雄、次女のノリ子、そして、敏子の五人が島で暮らしていました。
長兄の芳信は出征中。
次男の芳盛は佐世保の砲術学校に入学。(後日、分かったことだが、戦争が近づいてから沖縄本島に移動させられ沖縄戦で戦死する。その場所不明)
海軍に志願した三男芳三は沖縄戦が始まる前に鹿児島への渡航中、乗っていた船が米軍の潜水艦に撃沈され死亡しました。
父は「もし、アメリカーが上陸してきて見つかったらいけないので、あなたたちは壕のずっと奥で壁にくっつくようにして隠れていなさい。」と子供たちに注意しました。
その時、父の頭がおかしくなったのではないか、と敏子は疑いました。
だって、日本が戦に負けるはずがない、と信じていたし、さらに、米軍が押し寄せて来ても、友軍が助けにくるか、神風が吹いて米艦隊を沈めてしまうと、学校でも教えられ、さらに、日本兵たちにも信じ込まされていたから、まして、米軍が上陸してくるなんて夢にも思っていなかったので、父の言葉に反発したくなる気持ちがわいてきたのです。
しかし、すさまじい数に艦載機の攻撃の様子からして、友軍の救援は当てにならないような気もしました。
上空の何処にも日の丸の飛行機の姿は見えません。
アメリカのグラマン艦載機だけが自由自在にガソリンを山野や集落にまいた後に機銃掃射とともに焼夷弾も撃ちこんであたりを火の海にしていくのです。
火の勢いは衰えることなく、敏子たちが隠れている防空壕の近くまで襲ってきました。
危険を感じた家族は夜遅くから悲鳴を上げているように燃え広がる山火事を
避けながら、島の裏にある自然の洞窟であるヌンルルーガマに移動すること
にしました。
ありったけの食料や衣類や布団などを全員で分担して担いだり、背負ったりして運びました。
母は乳飲み子の末娘のノリ子を帯でしっかりとゆわえて背負っています。
敏子は食料の入った鍋を大事に頭に乗せて暗い夜道を黙々と歩いていきました。
それぞれが自分の持っている荷物を運ぶのに精一杯で話をする者はいません。
そして、これから襲ってくるであろう巨大な悪魔に追われるような恐怖心にかられていたのです。
ヌンルルーガマに移動し隠れたものの、昼は米軍の空襲や艦砲射撃がひどいので、飯を炊く余裕はありません。
ガマの中の子供たちはひもじさで泣き叫びます。
その声に押し出されるように敏子たちは夜間、水場を探して米を炊きに出かけます。
水さえあれば、どんな状態のものでもかまいませんでした。
持ち帰ったご飯を見たら、複雑な色をしていました。
飲み水としてカメに汲んできた水は鼻を近づけることのできないほどの匂いを放っていましたが、渇きには勝てません。
回りの人たちが寄ってたかってきて飲み、瞬く間になくなる状態でした。
昼間その場所を見ると、そこは洗濯する場所であり、ヤギの屠殺場にもなっているのです。
ハエのたかった臓物が膨らんで浮いてます。
水を求めてやってきたのか、日本兵の死体も浮かんでいる時もありました。
宮城恒彦著「投降する者は」より
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