2015年8月7日
10日前から宵の口のウォーキングを半年振りに再開、昨夜は台風の影響で心地良い風。少し足を延ばして瀬長島まで行けば、普段から涼風を感じられる夕涼みを兼ねて飛行場の夜景を楽しむ若い親子やカップルも目に付く。
広島長崎原爆の日や沖縄慰霊の日、終戦記念日の日付を知らない若者が多く風化という現象記事が取り上げられる。常々、風化について、一考しないといけないと思うが不謹慎との謗り危険、表現が難しい。
風化という現象の危機感より、反戦平和や平和学習の効果評価が先ではないだろうか?
育鵬社の教科書が広まり、憲法が揺らぎ、自虐史観と押し込められ戦後の風化という。
風化がいけない風化が原因なのだろうか?
何を伝え守り、何が風化したのだろう。
世代は変わり、人は死に記憶は薄れ、当然な現象を受け入れ、形あるものの風化は受け入れなければ新たな創造はない。
神棚に飾り、水も変えずに拝みもせず過去にだけ頼ったあり方ではないかな。一過性の感情コンテンツのようになってはないか。
すべてを否定するつもりはない。生の戦争体験者が語る意義は大いにある。
しかし、反戦平和や平和学習のほとんどが戦争被害であり、被害者としての戦争の悲惨さ、戦禍である。戦後の70年間やり続けた平和思想である。消極的平和思想の国論の形成だが、この不完全さというより平和教育の本質が抜け落ちた結果が現在ではないか。
一番大事な、加害者教育が完全に抜けている。日本の平和教育の到達点、平和国家の創生、日本国憲法の精神に基づくなら戦争加害者教育抜きには成り立たない。戦後70年間、それを無視続けた結果、リアル感のない平和教育であり、戦中戦後を跨ぐ世代が墓に仕舞い込まざるを得ない、これが風化の実態ではないか。
戦争被害、戦争被害者の平和教育では思想になり得ず、残すべきは思想であるはず。
平和、学習教育、風化。再度考えなければならないテーマである。
中国にある抗日戦争資料館を摩文仁の丘の平和資料館の隣に建設すればバランスはいいかな。戦争のエゴ、経済のエゴ、人のエゴ、豊かさのエゴ。
人の死と貧困の上に成り立つもの。
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