2015年8月22日土曜日

忘れた記憶を偲び

8月13日
 辺境という地理的、文化的な距離感の変化は人の意識の変化や歴史感、国家感を窮屈にする。
 定義されたもの明文化されたものが全てではない。定義、明文化しないといけない理由がある事に気付けるかによって世界観はまるっきり違うものになる。

 歴史を正しく認識させない社会の社会体制の都合とは何だろう。
 東芝の四半期毎の繰越続ける粉飾決算経営と同じなのだろうか。
 平均1年半もない総理大臣の目先の都合、体制に寄り添う側のご都合だけなのか、終戦後マッカーサーから勝ち取った国体周辺に巣くる人達の存在価値に関わる物に起因するしなものか。明治維新後に形成されたとみる物が国体の正体だろう。
 大化の改新以降室町幕府までの歴史の呪縛なのか。祟り呪いレベルの歴史の改ざん疑惑から派生する、ご都合歴史を土台とする明治維新からの精神社会基礎、礎石に問題があり過ぎて、覆す事では成り立たない想像を超えた事なんでしょうかね。

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