8月19日
SEALDsに関する議論が散見する。結論から言えば大人気ないのひと言で片付く。
過度の期待、持ち上げ風潮が批判を誘発したのだろうか。すべて大人の論理でしかない。
彼等若者も運動と共に変化して行き大人のエゴに黙っていても巻き込まれていく。それとも分裂もしくは消滅、残党となるか。立派に成長するか?今はどうでもいい問題。
情けないのは過度な期待に夢見るヒーロー派が多い事、すべてを預けようとする伝統的な百姓文化を見つけてしまう。
それに対して懐疑派は乳繰りまわり違いとアラを探すのに夢中。何代何世代繰り返す汚れた心根のようだな。
どのように育とうが間違いを起こそうが関わらず口出さず放任する寛容さとで見守ることができないのは自信と信念がない現れでしかない。
裏切られようが期待外れに終わろうが、今、感じて動いている。それでいい。
必ずしもSEALDsと同化する必要も必然性も無理に求める必要もない。
必要にそれを求めようとする事を見つめ直せば、そこに残るのは何も行動できない己の姿しか見えないはずだろう。
社会科が受験の必須科目でなくなってから、社会常識の世代間の共通認識は崩れて久しい。さらに同世代間も含めて知識格差の問題を忘れた議論は何の戦略性も持ち得ない。
毎年100万人の有権者が生まれ、そのほとんどが違う価値観と知識格差と思考体力や精神体力の中、政治が行われて行く、この大前提なくして、日本社会という一括りでまとめてしまうのは危険でしかない。
世代が変われば意識は多民族並みに違う。この問題は地球温暖化並みの問題であり、今、近づく巨大な台風の対策に地球温暖化対策のCO2対策を持ち出すような話に見える
日本昔話ウサギとカメのおとぎ話に例えるなら、安倍政権はカメであり、憲法学者がイケンですと言うまで寝てたウサギは安保法制に反対する私たちでしかない。
それほどまでに、去年の沖縄県知事選挙前の突然の解散総選挙の仕掛けの強かさは12月の選挙結果から誰しも気づいていたはず、それでも4月の統一地方選でもスルーし寝たまま、安保法制でも静観、イケンでやっと起きだし、安保法制成立で時間と共に諦め眠りにつこうとするだろう。寝かせずに来年までウサギがカメにカエル事が可能にかが勝負になる。
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