2015年7月25日
責任を明確にしない統治、国民性を熟知した百姓掌握の伝統的手法。原発事故の過小化手法の一貫した分断風化が意図したとおりに進んでいくのを目の当りにしている。世論の目も明らかに時間と共に変わってきた。
国難である原発事故を個人の問題にすり替え世論も意図せず同調している凄さだ。放射能被曝避難の全国拡散、地方の善意による分断に繋がる結果になり、国難である原発事故被災を個人の問題に成らしめた。国策ではなく自治体の問題にすり替え福島県居住者問題に封じ込め、これもイチ地方自治体の問題に洗脳して行く。ユダヤ民族流浪の歴史のようだ。
自主避難者住宅支援打ち切りの受け入れ自治体住民の反応は全てが善意ではない。微妙なこの住民感情はなんなんだろう。福島被災者の線引が可能なのは原発事故の責任が明確にならず、責任を問われる事がないからできる事だ。被災居住地絶対帰還も時間と共にワガママとして拡がって行くのだろう。被災者救済より行政行為上位の哲学にもとずく、それを許容する国民の総意によって行われている事になるのだろう。
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