2015年8月21日金曜日

何を持って!事実となし事象とするのか

2015年8月3日
嫌翁長は保革に存在する。
保守側は感情的な選挙へ恨み辛みで勢力内における権力闘争の残り香から段階を経て大部分は集約されて行き、安保法制、辺野古という経過を辿りながら参議院選挙である程度形を整えるのであろう。
島尻安伊子なる傍流保守に感傷などなく、比例復活しようが選挙区で勝てなければ存在価値などないに等しい。考えてみれば傍流なればこそタカ派にならざるを得ない源だろう。
左派における嫌翁長は翁長懐疑派との汽水域の塩分濃度のようなもの、まどろみ変化する。左派の特徴とも言えるまとまりにくく常に感情的で安定した支持は難しい。
最近、SNSの特徴である似た者同士を集める機能の理由だけではないような嫌翁長的表現が散見してきた。
正義とか事実とかを大事にする論調だが、それを見るたびに、その先にある物はなんだろうと、手に取る事は出来る物なのだろうか。蜃気楼のようにとどきそうで辿り着けない事実なのかもしれない。
一度、正義と事実を数字にして会計上の処理ができるか検証し、表現としつ具現化できたものが正義と事実に集う民衆の信頼に足る物なのかという疑問ww
正義とか事実とか時とともに変わり人共に変化する。それが社会の目的、目標にはなり得ない保守には当たり前の大前提。
保守を代表する政治家がオール沖縄を率いて、今の沖縄を率いているの事実だが正義は各々の中にある。それ以外はすべて事象でしかないのであろう。

国会審議を見て、原発以外はすべて小さな事象にしか見えない。戦争だろうが福祉だろうが経済だろうが気まぐれな天気なようなもの。原発は其れ等再生可能な事象とはレベルの違う再生が限りなく難しい被害をもたらす。3.11で起こった紛れもない事実。
今の日本に3.11原発事故以外の事実は存在するのだろうか?
あらゆる問題に原発を引き合いに出す山本太郎はすばらしい。彼の謙虚さの表れだろう。続ける事でボディーブローのように意識に呼びかける。彼の表現を突飛に受け止める人も感じた歪感が意識というもの、気付くか気づかないか。
日本が戦争に負けた、敗戦は事実になっているのだろうか。最低の歴史認識さえ総理大臣が認めたくないのに他国の歴史認識を批判などなんの正当性が成り立つのだろう。
事実の共通認識という部分で、戦後70年、世代の入れ替えがほぼ終わりつつありる中、敗戦という事実は新しい世代にとってリアルなのか?
原発事故が事実の共通認識として確実にリアルであるはず。いわゆる風化問題としてではなく国民の共通認識の消滅問題かな。
ヒロシマ、ナガサキ原爆もありながら、ほとんど連動しなかったどころか。悪しき経験則として機能した感を感じてしまう

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